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2020年9月17日

20代から50代で「守る」「つなぐ」「育てる」を実現へ【森田桂治さまインタビュー】

プロローグ

「50歳のエンディングノート」取材担当のサムシングファン薮本です。

今回は香川県を中心に活躍しておられます、森田さんにお話をうかがいます。

森田さんとは今から4年前、起業家の先輩にご紹介いただいてお会いしました。

そのときはホテルで少しお時間をいただいて、ご自身で経営されている会社のことや、香川のお話をお聞きし、非常に充実した時間を過ごさせていただきました。

その後はFacebookのタイムラインを通じて、本当にいろんな活動をされていることを知り、とても意欲的でアクティブな方だなぁという印象を受けまして。

四国や香川のこと、うどんをはじめとする地元の文化のこと、さまざまなものをとても深く愛していらっしゃる方だということが伝わってきました。

そしてつい先日、会社の代表を辞任されて、若い従業員の方に社長を譲られたというニュースを拝見しました。

年齢的なことだけではないと思いますが、いろいろと節目を迎えられて、さらに意欲的なことを考えられているんだなと感じました。

そのときに、その決断のもとになったきっかけや考え方、そしてこれからの人生についてどんな思いや感情をお持ちなのかを、ぜひうかがいたいと思いました。

私自身も50歳という節目を迎え、人生の目的を改めて考えていくうえで、きっといろんな気づきをいただけるんじゃないかと考えたんです。

このような経緯から、今回の「50歳のエンディングノート」のメディア企画を考えたときに、真っ先に取材候補として思い浮かべたのが森田さんでした。

取材依頼をお送りしたところご快諾いただきまして、このインタビューのお時間をいただきました。

いろんなお話を聞いていきたいと思いますので、ぜひお楽しみください!

また今回のインタビュー動画もありますのでご覧ください。


薮本

よろしくお願いします。

森田

はい、よろしくお願いします。

薮本

最初にお会いしたのが4年前で、そこからFacebookでずっと、森田さんの四国でのご活動の様子を拝見しておりました。

今回私がたまたま、徳島県の「ぶつだんのもり」という会社様とご縁をいただきまして。

仏壇を買ったことも、買おうと思ったことさえもないなかで、代表の方や店舗スタッフの方にいろいろなお話をうかがって、「ご家族の思いに寄り添うことのできる仕事なんだな」と感じました。

そこで、いろいろな方の人生への思いをうかがっていくインタビューメディアをやりませんかとご提案して、この「50歳のエンディングノート」が始まったんです。

また、私は76年生まれの43歳で、「四十にして惑わず」の節目から3年経ったところです。

まさに40歳になったときに会社の株式を半分売却して上場グループに入り、3年くらいはあまり迷いもなく落ち着いていました。

それが最近になって、コロナ禍も影響したのかもしれませんが、自分が本当にやりたいことや、どう生きるのかについて、改めてざわざわしてきていて。

50歳という節目に至ったときに、はたして諸先輩方のように自分の生き方を堂々と振りかえれるのかな?という葛藤があります。

その思いもあって、50歳という節目を迎えられた先輩方にお話をお聞きたいということで、この「50歳のエンディングノート」というメディアをつくらせてもらっています。

このような背景のもと、いろいろとお話をうかがっていきたいと思います。

まずは簡単に自己紹介をいただいてもよろしいでしょうか。

森田

はい。

1969年生まれ、まさに50歳になります。

香川県で生まれて、立命館大学を卒業し、大手電機メーカーに就職。

その後外資系のコンピューターメーカーに転職してから、30歳で「株式会社ゴーフィールド」というウェブ制作会社を創業しました。

創業20年を機に、代表を6月に退任して、今は私一人の会社を立ち上げたり、環境系の活動や子育て支援の活動、いくつかのNPOの理事なんかもやっています。

ターニングポイントは30歳での起業。日本的大企業と外資系企業、両方の良さを集めた会社をつくりたかった

薮本

略歴をご紹介いただきましたが、これまでの人生を振り返ったときに「これが大きなターニングポイントだったな」とか、今の自分をつくっている考え方や出来事などを教えていただいけるでしょうか。

森田

最初に入社したのが大手電機メーカーの日立製作所だったんですが、まさに「日本の大企業」という環境でした。

たとえば、新人が見積書を持っていくだけでもお客さんに見てもらえる。本当に会社のブランドだけで仕事ができるという。

そういう大企業ならではの良いところをしっかり満喫しながら、うまく波に乗って成績も伸びたんです。

ところが大企業というのはやはり、先輩方がたくさんいることもあって、年功序列を超えていくことがなかなかなくて。

たとえば2〜3年経ってもボーナスの金額が横並びだったり。

これはなかなか、自分みたいにとんがった奴が出世していくのは無理だなと。

それで外資系のコンピューターメーカー、当時「シリコングラフィックス」という会社だったんですが、そちらに転職しました。

外資系ということで、できる奴は経費もガンガン湯水のように使えて、噂に聞いていた通りの環境で。

一方で、仕事ができない人にはやはり厳しい環境で、たとえば朝出社したら机の上が綺麗になっていて、会議室に荷物が置かれていて暗に「帰りなさい」と言われるとか、そんなことが本当に起きていました。

頑張りが実を結ぶ良さとともに、そういった怖さの面も感じましたね。

日本的な大企業と、外資系企業の両方を経験したことで、「両方の良いところだけを集めた会社をつくりたい」と思って。

満たされもしたし、達成していない部分もあったので、それをやろうということで、30歳で起業しました。

そのときに、やるんだったらプレイヤーの多い都会より、割とゆるい田舎の方が多分成功するだろうと思って、スタートしたのが今から20年前です。

そこら辺が大きなターニングポイントだったかなと思います。

薮本

都会の競争が激しいところでやるよりも、田舎でやったほうがいいというのは、20年前だと先進的な考え方ですよね。

森田

そもそも、ウェブ制作をみんなまだ自社でやっていた時代なんですよね。

香川県の大手企業でも、外部に発注するという考えがまだなくて、総務部とか広報室みたいなところがホームページをつくっていました。

それを初めて外部に出した先がぼくたちの株式会社ゴーフィールドだったっていう企業さんが、今でも結構いらっしゃるんですよね。

それくらいブルーオーシャンだったことは間違いないと思います。

薮本

起業がターニングポイントだったというお話がありましたが、結構勇気のいることかなと思うんですが。

森田

しかも一人で始めたんじゃなかったですからね。

ブラブラしている若者たちになつかれていたというのもあって、最初から僕含めて7人でスタートしたんです。

お客さんがついていたわけでもないので、最初の1年は売上が本当にきつかったです。

だから当時使えるものはもう全部使って、使い尽くして。

雇用の助成金とか、教育に使える補助金とかですね。

それから、妻の預金通帳をこっそり持ち出して、それを見せて銀行からお金借りたこともありました(笑)

リスクは高かったと思いますが、そのおかげでなんとか走り始めることができたという部分もあります。

薮本

今でこそ起業を取り巻くサポートがいろいろと手厚く用意されていますが、20年前というと、そんなに数もなかったんじゃないかと思います。

そして、銀行とのお取引を結構早々にスタートされたというのもすごいことじゃないですか?

森田

最初からというわけではなかったんですが、やっぱりまずは当時の国民金融公庫に行って、500万借りて。

それで1年の決算が終わった、創業から10ヶ月後くらいにやっと銀行との話が始まりました。

薮本

でも当時ってやっぱり3期分の決算がないと、なかなか話を聞いてくれない時代では?

森田

それが、2000年創業なんですけど、当時ってまだネットバブルが弾けきってないくらいの時代だったんですよ。

特にIT系企業というのは田舎ではめずらしくて。

高松の銀行の、ほとんど土木関係か農業関係しか融資先がないような郊外の支店だったので、「IT系の企業がやってきた!」みたいな感じで(笑)。

割と融通が利いたというか、結構大事にしてくれました。

薮本

なるほど、注目もしてくれたということなんですね。

大企業と外資系企業の良いところ、また、その二つで成せなかったものを自分の会社でつくっていこうというなかで、環境なのか文化なのか制度なのか、具体的に「これが思った通りに実現できた」というのはどんなところになるんでしょうか。

森田

大企業には、家族的な雰囲気が結構あったんですね。

所属している部くらいまでの40〜50人が、言ったら「世界のすべて」みたいなところがあって、ファミリーみたいになるんです。

その空気感が、多分今だと「嫌」っていう人も結構多いんですけど、僕なんかはおじさんたちに大事にされたり、難しいお姉さんたちに怒られながらも付き合ってもらったり、そういう家族的な良さみたいなものがあったので、それは新しい会社でもぜひやろうと思いました。

そして外資系企業の場合は、頑張った人にはちゃんとご褒美が出るし、頑張らない人にはちゃんと劣等感を感じてもらうじゃないですけど、「家族的に見捨てはしないけど厳しく」という面があって、そういったものも必要だなと。

経営スタイルとしてはすごくドライだけど、全体は家族的な雰囲気をもって、ということを意識していました。

そういうところがうまくいったんじゃないかなと思いますね。

50代になってからやりたいことが20代・30代でやりたかったことから変わってきた

薮本

香川という土地で、いろいろな企業や金融機関からも注目を集めて、自分の思い描くものをつくりあげながら成功されてきた森田さんですが、50歳で後進に道を譲られました。

その決断のもとになったきっかけや思いとは何だったのでしょうか。

森田

創業してから10年くらいは資金繰りのことばかりで、働くモチベーションでもあったんですが、「もう二度と経験したくないな」というくらい苦労しました(笑)。

資金繰りが大変だった頃は、誰かに任せるという選択肢はなかったんですが、おかげさまでうまく回り始めてきて、経営状況がよくなってきたということがまずきっかけの一つでした。

もう一つは、20代・30代でやりたかったことから、僕が今50代でやりたいことが変わってきているというのがあって。

それを引きずったまま代表でいるということは、興味を失いつつあることに対して口を出す、いったら老害っぽいことをやってしまうことになるのかなという気持ちもありました。

それで、割と5年くらい前から「50歳になったらやめよう」というのは決めていました。

薮本

5年くらい前から徐々に、自分が50代に入ってからやりたいことと、今までやってきたことの乖離に気づき始めたと。

森田

そうですね。

まず一番大きかったのは、40歳を過ぎたくらいのときに、当時雇用していた女性の従業員が、事件に巻き込まれて亡くなってしまった出来事があって。

僕の会社にいる間に留学もしたり、すごく理想をもって未来を夢見ていた人が、自分は何も悪くないのに亡くなってしまったんです。

それから、やりたいことがあるんだったら本当にやっておかないとダメだと思い始めました。

 

あと、一昨年に父が亡くなったんですが、そのときは不思議なことに、全然悲しくないんですよ。

なんでかなって自分でもずっと考えていたんですが、単純にもう「次は自分の番だ」という気持ちなんだと気づいて。

もう父はいなから、次は自分が頑張らないといけないし、それこそ「順番が来ただけのことだ」みたいな考えに至って。

さっき薮本さんが仰った「惑わず」じゃないですけど、本当に迷いがなくなるというか、そんな気持ちになりました。

40代は、20代・30代で得たものを軸に「自分がどんな役割を果たしていくか」を決めていった10年間

薮本

50歳を迎えた今、改めて振り返ったときに、20代・30代・40代はそれぞれどんな意味を持った時代だったと思われますか。

森田

僕、今は後悔しているんですけど、学生時代はあまり勉強していなかったんです。

かたちだけの研究をしていたというか。

やっと社会を学び始めたのが社会人になってからだったので、そういう意味で、20代はもう本当に「学ぶ10年間」でした。

会社は変わったりしましたけど、良い上司たちに恵まれたのもあって、実践でとことん学べる環境でしたね。

今だと働き方改革と逆行しちゃうんですけど、当時は毎日、ビルの電気が落ちる23時とかまで働いて。

外資系に移ってからはもう、深夜2時3時上がりで、いつもタクシーで帰っていました。

それくらい、とにかくとことん学んだのが20代ですね。

次の30代は、自分がガンガン働くというよりは、チームで一緒に頑張ろうということで起業して、経営に明け暮れた10年間でした。

技術営業のプレイヤーとしては、20代でもう完成したくらいのつもりで僕はいたんですけど、経営者としてはまったくダメダメで(笑)。

経営とは何かを教えてもらえるような環境が周りになかったこともあって、本当に独学の世界でした。

本を買っても、100冊に1冊も役に立たないんですが、それでも買い続けて。

先輩たちにも相談に乗ってもらって。

実践を繰り返して、9割の失敗を糧にして経営者になっていく10年間だった気がしますね。

そして40代は、30代で得たものをより実現していく10年間

経営だけじゃなく、仕事もプライベートも含めて、どうやったら自分が生きてきた証ができるかということを実践してきたのが40代かなと。

薮本

40代って、僕も始まったときはある意味「完成する世代なのかな」って思っていたんですが、実際3年くらい生きて、「あ、この時期が一番迷うな」と(笑)

森田

たとえば環境問題を考えたときに、「エネルギーコストを下げた生活をするのが理想だ」とか、「海にゴミがない方がいいんだ」みたいな、いろいろな物事に対して「こうあるべき」みたいな部分は、僕は割と40代頭くらいから迷いなく決めていけたんですよ。

多分今でも、「こういうときは森田さんどっちで判断します?」って聞かれたら「こっち」って言えるくらい、そこは迷いがないんです。

社会のしくみや理念いったものが迷いなく判断でき始めたのが40代頭くらいなんですよ。

じゃあそのなかで、自分はどんな役割を果たしていくんだという部分に関しては、やっぱり結構迷いがあって。

それで「これはもう俺の役目じゃないからやめとこう」という、捨てる部分も結構出てきたんです。

40代をかけて「あと何やるか」をどんどん決めていったという感覚ですね。

大きかった「マスター」たちとの出会い。一緒に何かを実行してきたからこそご縁に気づけた

薮本

やりたいことの理想はイメージできるものの、そこにおいて自分がどんな役割・キャストで登場するのかに迷いが生じ、それを決めていくという過程があると思います。

森田さんはご自身の役割を決めていくなかで、どういったことがファクターになったんでしょうか。

森田

僕、人生において12人くらい勝手に「マスター」と呼んでいる師匠たちがいるんですよ、スターウォーズのジェダイマスター的な(笑)

そのマスターたちとの出会いは大きかったですね。

たとえば僕、NPO活動なんかも結構積極的にやっているんですけど、そのなかの海ゴミ分野にも一人師匠がいて。

師匠のお仲間たちも含めて学ぶべき人たちなんですが、みなさんは東京とかそれぞれの地域、あるいは学術分野で活躍されているんです。

じゃあ僕はなんだって考えたときに、僕は香川っていうエリアで、専門家もいないけど、市民をまとめる役割として活動していこうと。

自分のプレイエリア外で活躍している人たちを参考にしながら、自分が担うべき役割を発見できたというところはあるのかなと思います。

薮本

特別なご縁って、人それぞれ本当はたくさんあると思うんですが、それをご縁だと気づけるかどうかも大きな境目だと思います。

森田さんは、そのマスターたちとの出会いにどうやって気づけたんでしょうか。

森田

やっぱり、一回会っただけで「師匠」となったりはしないんですよね。

僕が興味のあることについて、その分野の専門家の方と話をしていくなかで、何か具体的なプロジェクトを一緒にやるんですよ。

たとえば海ゴミの分野だったら、先生を実際にお呼びして、講演と、海での実践的活動をするとか。

1日2日で終わる短期的なものも含めて、何回かプロジェクトを一緒にやっているうちに、飲んだり喋ったりも含めて「ああ、そういう考えでやっておられるんだな」という、活動の背景や思いを理解していくんです。

そこまでいって、「ああ、これは縁だし、この方はマスターだな」となっていきました。

どの方とも「一緒に何か実行する」というフェーズが必ずあったように思います。

「もう時間がない」という焦りがなくなり年齢を経るごとに変わっていく自分の役割に気づいた

薮本

人生100年時代と言われる今、もしかしたら医学の進歩でさらに延びるかもしれないわけですが、50代に入られて、この先の人生を考えたときに、シンプルにどんな感情でおられますか?

森田

50歳になる前までは、「もう時間がないな」って結構思っていたんですよ。

身近な先輩たちのなかには、60歳とかでセミリタイアして、家に入ってぼーっとしている人とかも結構いらっしゃるんです。

だから、やりたいことをいろいろと考えてはいるけど、「あと10年しかないじゃないか」という感じで、もう時間がない、と。

それに、60歳とかになって、若い人がいろいろと出てくるのに、「なんか偉そうにしゃべる人」という風にはなりたくないなとも思っていました(笑)

ただ、実際に50代になってみたら、50代なりの役割があるなと気づいて。

それは60代になってもそうなんですけれども。

昔自分が苦労したいうこともあって、20代・30代の人たちが使命感を持って何かをやり始めたときに、偉そうにするのではなくサポートしていくことが、50代以降の自分の役割として大きいと感じるようになったんです。

薮本

すごく勇気をもらえるお話ですね。

僕は、今の自分のままで何かを成し遂げようとすると、時間に対しての焦りがすごく出てくる感覚があって。

でも、年齢を経るごとに変わっていく自分の役割や、提供できるものにずっと気づき続けることができるなら、やっぱり命ある限り自分のやりたいことに時間が使えるんじゃないかって、そんな風に受け取らせていただきました。

ありがとうございます。

「守る」「つなぐ」「育てる」活動とその根本にある「つくる」力

薮本

森田さんは今、改めてご自身の役割に気づかれて、むしろ今からがまさに始まりというか、何か清々しい感情になられている印象を受けました。

実際に、本当にいろいろな活動をされておられますよね。

すべてをご紹介していただくのはちょっと大変だと思いますが、いくつかぜひご紹介いただけないでしょうか。

森田

僕自身も新たに会社を立ち上げましたが、これまでいくつかの会社の立ち上げに関わってきた人生ということもあって、創業したい人を支援していくというのが、これからやりたいことの一つです。

それから、海ゴミ対策をライフワークでずっと忙しく続けています。

特に夏休み期間中は、小学生相手に2日に1回は何かやっているような感じです。

この活動で一番ワクワクするのって、実は大人向けの講習会じゃなくて、小学生や中学生を対象にするときなんですよ。

子どもたちって楽しくないとついてこないので、もう全力で楽しい時間をつくるんです。

そうすると、やっぱりものすごく反応が良いんですよね。

海ゴミ対策は子どもたちの世代から変えていかなきゃならないという気持ちもあって、一生懸命やっています。

そして、この活動は僕一人でやっても幅が広がらないので、今一番時間をかけているのが人材育成です。

具体的には、「海ゴミリーダー」みたいな存在を香川で30〜40人つくっていこうという話をしています。

あと、今年から「わははネット」という、子育て支援のNPOの理事にもなりました。

もともとはどちらかというとお母さんの会だったんですけど、お父さん側や経営者視点での代表として関わりだしたりしています。

僕ももう少しで子育てが一山越えるところなので、自分ができなかったこと・できたことを振り返って、ノウハウだけじゃなくいろいろな面から恩返ししていくフェーズなのかなと思って、頑張っているところです。

最後に、「うどん券」といううどん屋さんの支援活動についてですが、これは自分の報酬はあまり考えていない活動で。

もちろん、あったらもっといいんですが(笑)

「大事なものを失いたくない、守りたい」という声を集めたら、こんなにも共感を得られて、こんなにもパワーになるんだと。

大事なものをどうにかして守りたいときは、やりようはあるんだなということが、本当によくわかったプロジェクトなんです。

この辺の手法は包み隠さず、プロジェクト推進の立場でいろいろと公開していきたいなと思っています。

薮本

お話をうかがって、森田さんの人生から「守る」「つなぐ」「育てる」というキーワードが僕のなかに浮かんできました。

そしてその3つの活動の根本には、「つくる」というクリエイティブの力があるということも、とてもよくわかりました。

コロナ禍の抑圧がエネルギーになって新しいことにチャレンジしようとする人が増えている

薮本

この時期なので、コロナ禍についてもご意見をおうかがいしたいんですが、何かコロナをきっかけに「こんなことが実現していくんじゃないか」「こういう良いことが起きるんじゃないか」といった、ポジティブにとらえられているところがあったらお聞かせいただけないでしょうか。

森田

こういうZoomインタビューなんかも含めて、コミュニケーション自体は逆に結構増えてきていると思うんですよね。

Slackのような非同期のコミュニケーションまで入れたら、昔よりもすごく活発なんです。

仕事でも、友人や知人とでもそうですけど。

そしてそのなかから、「コロナが終わったらこういうことやろう」という、新しいプロジェクトの種みたいなものがたくさん出てきているなと。

ちょうど僕が会社の代表を退任したところだったので、「何か新しいことやりたい人いたら無料で相談に乗りますよ」というのを受け付け始めたら、想像以上に来てしまって。

1日に10数人とやりとりすることになろうとは思っていなかったんですけど(笑)

それくらいみんな、半年間ぐっと抑えられていたからこそ、「次こんなことやりたい」というエネルギーがたまって、爆発しようとしているんだと思うんです。

別に悪い意味じゃなくて、新しいことにチャレンジしようとしている人が増えているんだと感じます。

師匠達は亡くなってからも新しい気づきを与え続けてくれる存在

薮本

さきほど、人生のマスターの存在のお話がありましたが、お世話になった方や思い出深い方のなかで、おそらく彼岸に渡られた方もおられると思います。

今その方のことを想ったときに、どういったことが心に浮かびますか。

森田

大学のときのゼミの先生が、10年前くらいに亡くなられました。

大学を卒業してからも、僕が香川で起業してからも、ずっと気にしてくださった方で。

いろいろな仕事のこととか、僕から相談したわけでもないのに、資料を送ってきてくださったり。

僕もそれを粋に感じて、先生を香川に呼んで講演会を開催したり、一緒にお酒を飲ませていただいたりしたんですけど。

ずっと考えていたのは、先生は亡くなる前まで僕たちに何を伝えたかったのかなということです。

あと、僕、ウルトラマラソンをやっているんですが、ウルトラマラソンって単純に体力づくりというよりも、人生を考える100キロの旅みたいな面があるんです。

それで、ウルトラマラソンのことだけじゃなく、仕事や人生のこともよく相談していたマスターも、1年前に急に亡くなられて。

これはさすがに、親が亡くなったときよりも、心構えがない分ショックだったんですよ。

その方のことも、大学の先生と同じで、「何を僕に伝えたかったんだろう」ということをずっと考えて。

過去のFacebookの投稿なんかを読み返しては、僕の勝手な解釈で「こういうことを伝えたかったんじゃないかな」と感じ取って。

それを僕なりの、いろいろなことを決めていく材料にしているところがあります。

だから、亡くなられてもずっと師匠みたいに感じているんですよね。

薮本

生きておられる間にもたくさんお話をされたと思うんですが、きっと亡くなられてからもいろいろなお話をされているのだなという風に思いました。

森田さんにとって、新しい気づきをずっといただける存在なんですね。

20代は自分と向き合う時間を確保できたら理想の生き方が見えてくるかもしれない

薮本

20代の頃って、学ぶ前段階の気づき、つまり「あ、自分にとってこれは必要なことだ」「こんなこと自分は知らなかったな」と気づくことが、結構難しいんじゃないかなと思っていて。

なにかこう悶々としているというか、なかなか自分自身を発揮できていないような20代の方に向けて、アドバイスというか、メッセージみたいなものをいただけたら。

森田

よく言われることではあるんですが、「ノウハウを学んでもそれを消化しないと自分のものにならない」というのは、まさにその通りだと思うんですよね。

 

僕自身は20代の学生の頃どうしていたかというと、面白いなと思った人の本を10冊くらい持って旅に出るんですよ。

まぁ今はコロナ禍でなかなかできないですけど、僕なんかは1ヶ月くらい、中東とかアフリカとかに行ったりしていたんです。

当時は携帯もないですから、持っていた本以外はあらゆる日本語の情報をシャットアウトして。

あと、暇だから日記を毎日ずっとつけていました。

もちろん普通に観光地にも行ったりするんですけど、ドミトリーの宿で丸一日日記を書く日とかも設けて。

これが何になるかというと、本のわずかな情報をもとに、自分のなかからどんどん出てくるいろいろな思いをとにかく書き留める行為を通して、自分自身と対話するんですよね。

そうすると、自分なりの理想の生き方みたいなことを少しずつ考えるようになるんです。

こんな風に、自分と向き合う時間みたいなものをどうにか確保できたら、本当はいいんですよね。

それが今はやっぱりついスマホを触っちゃうから、難しいのかなというのは感じます。

あと、昔からIT企業はよくやっていた手法だと思うんですが、何人かでどこかへ行って合宿的なものをやるというのは、僕は今でも手法として色あせていないと思います。

1泊2日や2泊3日くらいで、若い人同士で何か一つ目的を決めておいて、練る時間を設けるみたいなことは、僕は本当は今でもやりたいですね。

「深刻になるな、真剣になれ」困ったときほどこの言葉を思い出して取り組んできた

薮本

最後の質問になります。

今回「50歳のエンディングノート」というタイトルのメディアですが、僕はエンディングノートを書いたりすることって、実はすごく縁起の良いことだなと思っていまして。

森田さんのなかで、人生で大切にされている言葉や、エンディングノートの表紙に書きたい言葉など、浮かぶものがあればぜひ教えてください。

森田

中学のときの先生がよく言っていた言葉なんですが、「深刻になるな、真剣になれ」という言葉が大好きで、この言葉で生きてきているところがあります。

経営なんかをしていると、実際は深刻な事態がずっと続くんですけど、深刻になっていても解決しないので、とにかくまずは真剣になろうと。

困ったときほどこの言葉を思い出して取り組んできたので、ぜひこの言葉を挙げたいと思います。

薮本

ありがとうございました。


エピローグ

45分という短い時間でしたが、非常に濃い中身で、僕自身もたくさんの気づきをいただくことができました。

森田さん自身、お人柄が本当によく伝わってくるお話ぶりで、「守る」「つなぐ」「育てる」という活動の思いと、それを「つくる」力でしっかり実現されていく方だということが、インタビューを通して強く伝わってきました。

20代は学び、30代は経営者になるための努力を重ね、40代は自分の人生で実現したいことを形づくるための準備し、いよいよ50代で自身の役割を実現していく。

50歳という節目は僕にとっても未知ですし、20代・30代の方にとっては未知どころか遠い将来のイメージだと思うんですが、どの世代にとってもすごく勇気の湧くお話をいただけたと思っています。

 

森田さん、本当にありがとうございました。

(インタビュイー)

株式会社ゴーフィールド 取締役会長
NPO法人アーキペラゴ 副理事長
NPO法人わははネット 理事

森田桂治(Keiji Morita)

1969年香川県生まれ。立命館大学卒。株式会社日立製作所、日本シリコングラフィックス株式会社を経て、2000年、ウェブ制作会社、株式会社ゴーフィールドを香川で創業。官公庁、行政、総合病院、大学、大手企業のウェブサイトを制作、運営。企業経営の傍ら、環境問題対策でNPO法人アーキペラゴや子育て支援でNPO法人わははネットに理事として参画し、地域課題の解決に取り組む。2020年には株式会社ゴーフィールドの代表を退任し、さらに幅広く若手のサポートに邁進の日々。
http://www.keijimorita.com/profile/

(インタビュアー)

株式会社サムシングファン代表取締役
立命館大学経営学部客員教授
薮本直樹(Naoki Yabumoto)

1976年大阪生まれ。司会・ナレーターなどの仕事に携わる中、映像メディアに出会い、その可能性に魅せられ03年に代表取締役として株式会社サムシングファンを設立。経営的視点からの動画活用を早くから提案し、「顧客創造」「人材育成」に繋がる「企画」「映像制作」を数多く手がける。その他、ITビジネスに携わる経営者・ビジネスパーソンが集う「IT飲み会」を主催。 2013年立命館大学経営学部客員教授就任。