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2020年10月29日

自分だからできる表現を、どれだけ人に伝えていけるか【島田珠代さまインタビュー】

 

薮本

「50歳のエンディングノート」のインタビュアーを務めさせていただきます、薮本と申します。

今日、あまりにも楽しみにしていまして、昨日からYoutubeで島田さんの動画をたくさん見て今日は臨んでおります(笑)

よろしくお願いいたします。

島田

はい、よろしくお願いします!

17歳で芸能界へ。一人コントに限界を感じつつも、吉本新喜劇に移動して道がつながった

薮本

50歳というと日本全体では平均年齢のど真ん中で、何かを成し遂げてこられた方、そしてまだまだこれから先が長い方という世代です。

そんなタイミングで一度、「エンディングノート」というタイトルでご自身の棚卸しをしていただこうという、そんなインタビューになっております。

早速ですが、島田さんは17歳で芸人になられたというエピソードを拝見しました。

非常に若いタイミングだったと思うんですが、もともと芸能界や芸人という職業を目指しておられたんですか?

島田

もともと将来は書道の先生になりたかったんですが、学校では休み時間になると、先生のモノマネや一発ギャグをしてクラスを渡り歩くような子だったんです。

それで「あの人ひょうきんやな」というイメージがついたみたいで、お笑い番組の素人参加コーナーに勝手に応募されて。

「4時ですよーだ」という番組に出て、そこからトントンと、吉本興業に入れていただいた感じです。

だから最初は「自分から」というより、割と「周りから」でしたね。

薮本

実際に芸能界に入って活躍されていくなかで、外から見ていた芸能界と中に入って見る芸能界とでは、印象は変わりましたか?

島田

やっぱりお仕事となると全然違いましたね。

学校でも喋らなくなったし、急に暗い女の子になりました(笑)。

薮本

仕事のときにしっかりパフォーマンスしないといけないから、普段は逆に抑え気味になったと。

島田

そうですね。

「充電せなあかん」というのもあったし、スベったときのショックったらなかったですし(笑)。

その頃の二丁目劇場は、すごく若くてノリのいいお客さんが多かったんですが、やっぱりお金をもらって挑む舞台は、学校の友達より厳しいですよね。

学校が終わって、二丁目劇場で一人コントして、家に帰ってという生活が始まるんですけど、家に帰ったらバサッとベッドに倒れ込んで、「今日のアカンかったところ」を振り返ったりしていました。

そんな感じで、自分が急に変わりましたね。

「学生時代にこんな感じでいいんかな?」とも思いましたが、きっかけは周りの応募だったとはいえ、自分で選んだ道だったので。

薮本

僕も大阪出身なので、島田さんのご活躍はリアルタイムで視聴者として見ていました。

「ショートカットのすごく元気なお姉さん」というイメージで、なんか応援したくなるキャラクターだなと思っていました。

やっぱり大阪のお客さんって厳しいですか?

島田

厳しかったですね。

厳しかったから「勝たなあかん」というか……ある意味で媚びながらやっていました。

演劇を見に来る人は女性が多かったので、私も女性だし、良い意味で媚びながら、「オンナオンナしたら終わりやな」とか計算しながらやってましたね。

そうしたら「ワ〜オ!」みたいな、ああいう芸風になっていったんです。

薮本

最初は自分から望んではいなかった芸能界とはいえ、いざ入ってみるととても真面目に取り組まれていたんだなという印象です。

いつ頃からいわゆる女優、アイドルとして、芸能界でずっとやっていこうと思われたんですか?

島田

実は「やっぱり大学行かな」と思って、予備校とかにも行っていたんですよ。

でもよく考えると、「4時ですよーだ」に素人として初めて出たときから、芸能界でやっていくことをもう決めていたような気がします。

ただ、続けたいけど、「私は一人コントはもうあかんな」とも思っていました。

友近ちゃんとかゆりやん(ゆりやんレトリィバァ)とかすごいなぁと思うんですけど、一人で何かをやって終わっていくのって、すごく難しくて。

ネタ切れもしてたし、「あ〜もう潮時かな」というのはあったんですけど、ちょうどそのときに当時の大﨑会長が二丁目劇場から吉本新喜劇に担当が変わられて、私も新喜劇に移動させてもらうことになったんです。

それでつながった感じですね。

薮本

やっぱり一人コントと、たとえば二人でやる漫才とか、たくさんのメンバーの方が演技で笑いをつくっていく新喜劇とかとでは、全然違う舞台なんですね。

島田さん自身は、新喜劇の方が自分のやりたいことや芸風に合っていたということでしょうか。

島田

そうですね。

割とハチャメチャなタイプだったので、まずちゃんと台本があって、それを覚えてから崩していく方が私は楽だったんです。

私は「やめよっカナ!?キャンペーン」で新喜劇に入ったんですが、そのときの新喜劇はもうほとんどアドリブでした。

「やめよっカナ!?キャンペーン」は古い方と新しい方、今田さん東野さんを筆頭とする二丁目劇場のメンバーと、新喜劇にずっとおられためだか兄さんとかゆみ姉さんとかが、急に一緒にやらないといけなかったんです。

だからお互いアドリブを出していかないと、「どういうタイプなんかな」「どういう系統の笑わせ方をするんかな」というのがわからなくて。

それでアドリブ合戦で融合していったようなところがありました。

「私、裸の王様だった」と気づいたときが20代のターニングポイント

薮本

このインタビューでは、各年代での人生のターニングポイントをおうかがいしています。

島田さんが20代を振り返ったときに、「これが大きな転機だったな」と思われる出来事はどういったことですか?

島田

自分の横柄さというか、「あ、私、裸の王様やった」って気づいたときだったと思います。

新喜劇って、私が入るまでは「女の人はあまりギャグしない方がいい」という空気があったみたいなんですが、私は二丁目劇場で一人でやっていた感覚のままで入ったから、割とムチャクチャにやっちゃったんです。

若かったし、怖いもの知らずなところもあって。

そういうところが目新しかったのか、順調に「笑っていいとも!」とかにも入れてもらって。

でも実際は、新喜劇以外の仕事をちゃんとこなすための「基本」がなかったんですよね。

新喜劇でバーッとやって、お客さんがワーっと笑って、それでもう満足していて。

せっかくスタッフの方が、外の舞台とか、他の広がりやチャンスをいっぱいくれたのに、それを身にできなかった。

そのときは、「身にならなかったのは自分が悪かったせいだ」と気づいていなくて。

20代後半になってやっと、私自身に変なプライドがあったことや、ちゃんと身にしようとしていなかったことに気づきました。

それが20代の分岐点でしたね。

それからは、楽屋ではとにかく低姿勢で、人に優しく、「いらんことは言わない」姿勢を心がけました。

なかなか100%上手くはいかなかったですが、それをしたうえで、舞台の上でやりたいことをやって許してもらおうっていう。

本番ではバーッて人に言ったり「チーン」ってやったりするけど、終わったら思いっきり謝りに行ったりしていましたね(笑)。

薮本

20代で「原因は自分にあるのかも」と思えるのって、すごいことだなと思います。

気づくきっかけみたいなものはあったんですか?

島田

なんかこう、ふと自分で気づいたんですよね。

生意気といったらあれですけど、「横柄やったな」って。

周りは「珠代ちゃんそんな、控えめよ」って言ってくれるけど、やっぱり節々で「自分が一番」みたいなところがあって。

「あ、裸の王様やった!」って気づいたんです。

それと、藤井隆くんを見て変わったところもあるかもしれないです。

藤井くんとよくコンビでやっていたので、彼の行動を見る機会が多くて。

藤井くんは舞台ではワーッとやっていたけど、楽屋での礼儀正しい動きもすごかったんです。

だから舞台で何をやっても上の方も何も言わなくて、むしろ「もっとやれやれ」って協力的でした。

後輩なんであんまり言いたくないんですけど(笑)。

でもこういうことも、この歳だから言えるというか。

ある意味藤井くんが私の分岐点というか、ちょっと教科書のような。

「あ、こんな人になりたい」みたいなのはありましたね。

30〜40代は芸人である前に一人の人間として悩み葛藤し続けた時代

薮本

30代のご自身の転機は、どういったことがありましたか。

島田

30代は、自分のことを芸人というよりも、少しずついち人間として見ていこうとした時期だったかもしれないです。

薮本

それは、ちょっと原点に立ち返ってというか、ご自身の幸せとかそういったものに目を向ける時代だったということですか?

島田

そうですね。

人生の大きな出来事としては、30代で結婚と離婚を経験しました。

結婚したらみんな幸せになるって言うけれど、私の場合は、仕事でお客さんから笑いを取っているときの方が自分の中の幸せ度が大きかったんです。

それで「うわ、どうしよ」と思って。

結婚しちゃったのに、「あれ、幸せって私の舞台にあるやん」「どうしよ、男の人を巻き込んでしまった」って。

やっぱり、この世界でずっと頑張っている女の人はみんな、芸人・女優・作家さんとかジャンル関係なく、心の底で自分中心でいないと、絶対に良いものはつくれなかったりするだろうし。

私はその点で、自分の表現と家庭の両立が上手じゃなくて不器用だったので、自分中心のまま結婚生活をしてしまって、ズレが生じていきました。

たとえば、旦那さんが仕事で帰りが夜中になったり、夕食をつくったのにスタッフの方と食べて帰ってきたりしたときに、その不満をバーッと言ってしまうんです。

そこを「あ、そっか、オッケー」って言えなくて。

それで「ああ、結婚は向いてないな」って思いました。

それでいて、結婚をちょっと逃げ道にしていたところもあったんですよ。

たとえば新喜劇でスベっても「旦那がいるからいいや」とか。

何かそういう逃げ道がないと頑張れないような時期でした。

本当は一人でもなんとかやっていけるし、淋しくもないのに、結婚することで「私は仕事がダメになっても大丈夫です」って逃げ道をつくっていたんですよね。

それでもう、いよいよ「人間としてアカンやん」って、すごく葛藤して。

仕事で悩むというより、人としての形成をもっとちゃんとしないといけないし、「私は一体何をしたいねん」って、ずっと悩んでいたのが30代でした。

薮本

40代はどんな過ごされ方をしましたか?

島田

40代になっても葛藤していましたね。

そうは言ってもやっぱり、私、誰かがいないとダメなんです(笑)。

プライベートがダメだと、仕事もダメになってしまって。

「これはもう、私、変えられへんのや」って気づいて、結婚はしなくてもパートナーを見つけて仕事を頑張ろうって決めたのが40代ですね。

私にとって30代40代は、何においても完璧主義で、プライドばっかり高くてしんどい時期でした。

逃げ道を探している時点でもう、プライドが高いんですよ、私。

40代になっても、仕事が失敗して「あーあいつ失敗しよった」「あいつしょうもないねんな」って言われるのが嫌で。

でもそんなんじゃ本当に良い仕事はきっとできないし、お客さんにも伝わらないだろうなってやっと気づいたのが、50歳になってからでした。

笑いの仕事を応援してくれた両親。50歳で芽生えた「親を大切にしたい」気持ちが自分を変えていった

薮本

50歳になったときに、シンプルに思ったことや感じたことって、どんなことでしたか?

島田

焦りました。

歳の近い知り合いが病気をしたり、ICUに入って私が呼びかけても返事しなかったり。

今までは仕事とか恋愛とかしか考えてこなかったけど、人間の身体に自然に起こってくることがどんどん目や耳に入ってきて。

そうして焦ったときに、「親を好きになろう」と思いました。

それまでは、親からの助言は「はいはい」って聞き流したり、「私はもう大人やねんから、自分で決めるから」って、まともに受け止めてこなかったんですけど。

「親の意見を聞こう」「親に優しくしてあげよう」って思い始めてから、自分自身がすごく変わったんです。

父は私が26歳くらいのときに亡くなっているんですけど、母と良い関係になってから、すごく仕事が楽しいし、上手くいくようになりました。

薮本

お父様は酒屋さんをされていたという記事を拝見したことがあるんですが、どんなお父様だったんですか?

島田

父は岡八朗師匠が大好きで、大分の出身なんですが大学で大阪に来て、岡八朗さんに会いたいがためにNHKの大道具でアルバイトしていたくらいでした。

新喜劇もすごく好きだったし、何より父自身もひょうきんな人で。

家に取材のロケで石田靖さんとか大木こだま・ひびき師匠とかも来ていたんですが、石田さんに「新ギャグができた」とか言ってギャグをやって、頭をパーンって突っ込みで叩かれたりして(笑)。

私のことも、一切反対しなかったですね。

普通だったら、娘があんなバンバン壁にぶつけられたり、回し蹴りされたりしたら、親として思うところがあるかもしれないんですけど、すごく喜んで、応援してくれていました。

父も母も面白くて明るい両親ですが、一方で本当に厳しい両親でした。

たとえば私が中学校の頃、当時は悪い子も悪くない子もみんな制服をちょっと着崩して学校に行く時代だったんですが、私がそれをすると両親にめちゃくちゃ怒られました。

その夜は父はベランダで泣いていたくらいで。

両親からは、言葉で多くを言われたわけではないんですが、すごくしつこく、諦めずに、私に構ってくれてました。

叱るのも、ある程度バーって叱って終わるんじゃなくて、本当にしつこいくらい、「もうこの人どんだけ私のこと好きやねん」っていうくらい、情熱的に怒ってくれたのが印象的ですね。

薮本

御墓参りのときや、お仏壇を通してお父様とお話しされることもあると思いますが、どんなことを考えたり、どんな言葉を投げかけたりされますか?

島田

「成仏してね」というのと「お母さんを守ってあげてね」の、この2つだけですね。

ときどき「今日こんな番組に出たけど、視聴率が良いように見守っててください」みたいなお願いもしますけど、やっぱり基本は「お父さんが成仏してね」というのを唱えます。

私は、死んでしまった人でも気持ちって絶対に残っていると思うので。

今もこうやって話しながら涙が出るのは、きっと父が「泣くな泣くな」って体をさすってくれているのかなと思うんですよね。

残された時間で「私だからできる表現」をどれだけ伝えられるか

薮本

「ぶつだんのもり」さんの支援を受けて「50歳のエンディングノート」というメディアをつくるなかで、私自身、仏壇とかお墓とかって普段あまり考えないタイプだったんですが、元気なうちにそういうことを考えたりエンディングノートを書いたりすることは、非常に縁起のいい話だと聞きまして。

まだまだ元気なうちにいろいろなことを考えていただいたり、振り返っていただいたりする機会を共有できるようなメディアをつくりませんかということで、今回こういうインタビューをさせていただいています。

島田さんご自身、まだまだ長い人生のなかで、これからどういう生き方をされたいとか、こういったことをやってみたいとか、考えられていることはありますか?

島田

私は左脳人間というか、字を読むより音楽を聴く方が好きなタイプで。

具体的に「こういうことをやってみたい」というのはないんですが、私が持っている本能というか、感覚で、私だからできる表現を見せていきたいです。

本能でワッと笑わせられる自分なりの表現を、残された時間のなかで、どれだけ見ている人に伝えられるかということを考えていますね。

マニュアル通りじゃなく、私なりの見せ方を、どのシーンでもできるようにやっていこうと。

まぁ、相手に迷惑がかからない程度に(笑)。

あと、なかなか難しいですけど、怒ることはやめて、人に嫌な思いをさせることは言わないようにしようと思っています。

だって、もう50歳だから。

50歳って、「まだ50だけどもう50」って感じの歳じゃないですか。

だから、1日1日を大事に大事に生きるようになりました。

薮本

テレビ番組で珠代さんが「50歳のおばちゃんダンス」を踊られているのを見て、いちファンとして衝撃を受けて。

全然ネガティブさがなくて、今をしっかり生きておられるなというか。

楽しんでおられるし、周りにもそれを「楽しんでよ!」とおっしゃっているシーンを見て、ぜひこのメディアにもご出演いただきたいなと思って、取材の依頼をさせていただいたんです。

島田

だって、若く見せるとか、そういうのって「もういいやん」って思うんです。

私、モテる・モテないは絶対見た目で決まるものではないと思います。

自分の生き方が大事ですよね。

たとえばこれからパートナーを見つけるにあたっても、やっぱり自分の生き方で相手に「素敵だな」って思ってもらえるようにしたいですから。

年齢とか「白髪があるんです」みたいなのとか、もう普通に言います。

ちゃんと言いたい、もっともっと(笑)。

薮本

コロナ禍で劇場も閉鎖期間があったり、みなさんいろんなことを考えられたと思うんですが、島田さんは何かご自身の考え方に影響がありましたか?

島田

それが、あまりなくて。

リモートで取り上げていただくことが増えたんですが、場所やツールが変わっても表現していくことに変わりはないんですよね。

普段割と変なところで気を遣うタイプなので、リモートで一人で自由に表現する方が、実は気は楽なんです。

たとえば新喜劇でなんか私だけ目立ってやることやって、周りにいる人たちがポカーンってなってしまったときに、終わってから「すみません、なんか私だけやりすぎちゃって」って謝ったりするんですけど(笑)。

リモートのときは割とマイペースにできたので、お笑いを表現する部分では、ちょっと気持ちは楽でした。

薮本

他の方のYoutubeチャンネルとかにも出られているのを見て、新喜劇の瞬間的な笑いも大好きですけど、人柄がちょっとしたところに出るこういった番組のご出演なんかも、今だからこそ見れる、表現の幅が広がっている部分だなと思って、楽しんで見させていただいておりました。

島田

ありがとうございます(笑)。

薮本

最後に、「50歳のエンディングノート」というタイトルのメディアですが、島田さんご自身がエンディングノートに書き残したい言葉や思いを教えていただけますか。

島田

私は50歳になってから、芸人という枠を一回外して、いち人間として仕事に臨むことを心がけるようになりました。

そうしたら、物事がすごく良い方向に進むようになったんです。

なので、芸人にかかわらず、どんな職業の方も、いろいろと大変なときは、一度職種の枠をバンと外して仕事に臨んでみるといいかもしれません。

私は20代では傲慢さに気づいたり、30〜40代では自分のプライドやパートナーとの距離感に葛藤したり、そんないろいろな気づきを経て50歳を迎えた今、ある意味心が裸になった感じで。

私、鏡を見ても、イメージとしては外側がなくて、内臓の動きが見えているんですよ(笑)。

外側じゃなく、魂で人と接したり物事を考えたりしようって思っています。

あと、今日こうしてインタビューを受けながら、私は親を大切にする気持ちを持ってから変わったんだなと改めて気づきました。

ご両親がもうお亡くなりになっている方もいらっしゃると思いますが、今一度親を敬うとか、親を大切にする気持ちを持ってみるのもいいかもしれません。

(インタビュイー)

芸人・女優・アイドル 島田珠代(Tamayo Shimada)

1970年5月10日大阪市吹田市生まれ。
大阪成蹊女子高校在学中『4時ですよーだ』などの素人参加コーナーに出演したのがきっかけで、17歳で吉本入り。NSC大阪6期生と同期となる。
小柄で愛嬌のある風貌に反して、舞台上での奇天烈な身のこなしと女を捨てたような芸風で、吉本新喜劇の看板女優として活躍。
吉本興業の東京進出の際、22歳の若さで『笑っていいとも!』金曜日レギュラーや、『超!よしもと新喜劇』に出演し、山田花子と共に全国的に名前を知られるようになる。
また、吉本が秋元康のプロデュースにより結成されたアイドルグループ『吉本坂46』で、約6000人で行われたオーディションに合格し、1期生メンバーとなる。

壁にぶつけられ倒れ込んだ後に「男なんてシャボン玉〜」と言って石を投げる仕草をする、男に泣きながら纏わり付き徐々に下へズレていき股間と同じ高さになった時に股間を「チ~ン」と指で弾くなど、きわどいネタを主にギャグを多数持っており、今年、朝日放送テレビ『相席食堂』にて「パンティーテックス」というギャグを披露し、Twitterのトレンド入りした。
そんな芸風に反して、芝居を見せる場面では涙を流すなど、高い演技力も持ち合わせる。
2度の結婚と離婚を経験しており、現在でも“恋多き女”として、よく新喜劇座員内でいじられる事がある。

新喜劇の楽屋にマイボトルを持ち込むほどの大の酢好き。

(インタビュアー)

株式会社サムシングファン代表取締役
立命館大学経営学部客員教授 薮本直樹(Naoki Yabumoto)

1976年大阪生まれ。司会・ナレーターなどの仕事に携わる中、映像メディアに出会い、その可能性に魅せられ03年に代表取締役として株式会社サムシングファンを設立。経営的視点からの動画活用を早くから提案し、「顧客創造」「人材育成」に繋がる「企画」「映像制作」を数多く手がける。その他、ITビジネスに携わる経営者・ビジネスパーソンが集う「IT飲み会」を主催。 2013年立命館大学経営学部客員教授就任。