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2020年10月3日

何歳になっても「今が一番楽しい」と思えるようにありたい【山田岳人さまインタビュー】

プロローグ

「50歳のエンディングノート」取材担当のサムシングファン薮本です。

今日は、先日「カンブリア宮殿」にもご出演された、大阪市大阪府生野区の元工具の卸問屋、今は「DIYファクトリー」というECサイトを運営されている、株式会社大都の山田さんにお話をうかがいます。

非常に気さくな方で、ざっくばらんにお話をしていただける方なんですが、いろいろな深いお話をどこまでシェアいただけるのか、一生懸命取材をしてまいりますので、よろしくお願いいたします!


薮本

よろしくお願いします。

山田

はい、よろしくお願いします。

薮本

このメディアは「50歳のエンディングノート」というタイトルなんですが、特に20代・30代から見ると、50代はなかなか未知の世界なのかなと思っています。

とはいえ、不安を感じるのではなく、今の年代を力一杯走りきるうえでも、先輩たちの経験や見えている景色から、いろいろな気づきを得られるメディアをつくろうと。

僕自身も今43歳なんですが、いろいろと悩みが多いこともあって。

僕自身が気づきを得たいという思いからも、今回こういった企画をつくらせていただきました。

では、最初に山田さんから簡単に自己紹介をいただいてもよろしいでしょうか。

山田

はい、株式会社大都の代表をやっています、山田といいます。

会社は大阪の生野区という下町にありまして、今年で創業83年、私で3代目になる会社です。

弊社は、初代は金物屋さんに工具とかを卸していて、2代目である先代はホームセンターとかに工具を卸すという、卸し事業をずっとやってきました。

私の代になって、eコマース事業という、お客さんに直接商品や工具を発売する事業をやっています。

今はもう問屋事業の売上はゼロの状態ですが、仕入先さんは創業の頃からずっと同じです。

工具メーカーさんや塗料メーカーさんから商品を仕入れているところは変わらず、売り先が社会背景や世代によって変わっていったというところですね。

ちょうど今ジャスト50歳ということで、今日はいろいろとお話しさせていただけたらと思います。

リクルートで「仕事」との出会い。経営の知見や耐性を得て、20代で起業の準備をした

薮本

今までの人生を振り返ったときに、ターニングポイントがいくつかあると思うんですが、山田さんの記事でよく、今の会社を受け継ぐきっかけになったプロポーズのエピソードを拝見します。

そのときのことも含めて、今の山田さんをつくっているいくつかのターニングポイントについて、ぜひ教えてください。

山田

学生の頃は遊び呆けていました。

大学3回生くらいから「いよいよ危ないぞ」と思い始めて。

それまでずっとバーテンダーのアルバイトをしていたので、真面目な仕事をしようと思って、昼のアルバイトを始めようと。

当時の先輩から「学生バイトでもいいから来てほしいって言ってるよ」と聞いて、行かせていただいたのがリクルートでした。

そうしてアルバイトで入ったリクルートが、ものすごく面白くて。

結局大学を卒業してからも、新卒でリクルートに入社することになったんですね。

なので就職活動はまったくしていないんです。

社会人5年目くらいのときに、大学生の頃から付き合っていた彼女と「結婚しよう」という話になったんですが、その彼女が大都の、先代の一人娘でした。

結婚の申し込みに行ったところ、「会社を継いでもらえないですか」というお話をいただいて。

「いいですよ」とお返事をして、結婚して1年後に大都に入社しました。

結婚が27歳で、入社したのが28歳でしたね。

結婚と就職がくっついていたということで、僕の人生でここが一つの大きなターニングポイントだったと思います。

そしてビジネス上での大きなターニングポイントが、2002年、33歳のときに社内でeコマース事業を立ち上げたときです。

今はeコマース事業の売上が100%ですから、もし当時チャレンジせず卸し事業だけを続けていたら、今はなかったなと。

薮本

人生の大きなのターニングポイントの前に、まずリクルートで「仕事との出会い」があったんですね。

山田さんから見たリクルートの面白さとか、働いていたときの良さというのは、どんなものだったのでしょうか。

山田

僕がリクルートに新卒入社したのは1992年、バブル崩壊直後くらいですね。

当時はB-ingやフロムエーなんかもまだウェブがなくて、ほとんど紙媒体でした。

リクルートはほとんどが営業マンですから、僕もそういった紙媒体の営業をやっていたんです。

そんななかで面白かったのは、まず一つが、客先の業種を選ばないこと。

それこそ商店街の個人商店から上場企業まで、どこに行ってもいいので、いろいろな会社の担当をしました。

二つ目が、経営者に近いところで話ができること。

5年間で3,000人くらいの経営者の方とお会いして、たとえば「女性の営業部隊をつくりましょう」なんて採用戦略の提案をしたり。

僕は当時から起業するつもりでいたので、売上が欲しいというより、できるだけたくさんの経営者に話を聞きたくて、アポイントとっていたところも実はあります。

そして三つ目は、限界まで働くという経験ができたこと。

当時のリクルートはまだ上場もしていませんでしたし、今から考えればもうメチャクチャな会社でした。

毎日朝から終電まで働いて、ブラック起業というか、「漆黒のブラック企業」ですね(笑)

かつ数字に対するコミットがすごくて、関西の営業マン百数十人の1番から最後まで、毎日夕方になると数字が出るような会社で。

無理をやることで発想が生まれてくる経験とか、「あれを乗り越えたんだから大抵のことは乗り越えられる」と思えたり。

そういう意味でものすごく鍛えられた、いい20代だったと思います。

僕の娘が今ちょうど大学3年生で、就職活動に入る時期ですが、彼女に「どこの会社がいい?」って聞かれたら「リクルートに行け」って言いますね。

薮本

「何を目指していいかわからない」「やりたいことがない」という20代の方も多いと思いますが、20代の頃の山田さんが明確に「起業」という一つの目標を持てたのは、どういった思いや考えからだったんでしょうか。

山田

起業したいという思いは強かったんですが、実は「これがしたい」というのはなかったんですよ。

それもあって、いろんな業種・業界の経営者に会いたかったんです。

それでたくさん会社に通って3,000人も経営者に会えば、「この会社は伸びないな」「こういうオフィスや従業員の会社は伸びるな」といった知見ができてくるんですね。

それから、自分自身の成長に対してもこだわりがあったので、リクルートに行きながら中小企業診断士の学校にも行っていました。

リクルートの営業マンって営業しか知らないので、よく「潰しが利かない」と言われたりもして。

営業は、極めたとまでは言えないかもしれないけど、一通り理解できたので、経営者になるには財務とかも理解しないといけないだろうということで、学校に通って。

そうして「起業の準備していた」という感じです。

薮本

行動量の多さがとても印象的ですが、20代の頃はそこに対して「めんどくさい」とか、「ちょっと躊躇するな」という気持ちはありませんでしたか?

山田

なかったですね。

それもやっぱりリクルートから学んだことで、とにかく「自分で考えろ」と言われる会社なんです。

リクルートでは先輩や上司に「これはどうしたらいいですか」って聞くと、「お前はどうしたいの」と聞き返されるんですよね。

それで自分で考える癖がついたんだと思います。

あと、飛び込み営業も当たり前にやっていたんですが、全然知らない会社の扉をいきなり開けるのは、最初はやっぱり怖かったです。

扉に「セールスお断り」とか書いてあって、それでも飛び込んでいって、無下な対応をされることも当然あるわけですよね。

でも、先輩に「それでお前は何を失うんだ」と言われて。

たとえば、もしそこで「帰れ」と言われても、別に殴られるわけでも、お金を取られるわけでもない。

「それはただ単に自分が傷つくってことでしょ」「それってなんか意味あるの?」と言われて、「なるほど、失うものはないな」と気づいて。

それからは、大抵のことはもう怖くなくなりました。

耐性というか、そういう力はある程度20代でついた気がします。

少々凹んでも、1年後に同じことで悩んでいるかというと、大抵のことはそうじゃないんですよね。

後継ぎとして念願の経営者に。しかし夢を持てず腐ってしまった時期もあった

薮本

ゆくゆく起業するうえでも大切な気づきを、リクルートでいろいろと得られたということなんですが、結局ご自身でアイデアを実現されるのではなく、ご結婚をきっかけに「跡継ぎになる」という選択をされました。

そのときに、そもそもリクルートへの未練や、自分で起業することへの未練が頭をよぎることはなかったですか?

山田

リクルートへの未練は、ゼロではなかったです。

特に、当時の上司だった大阪支社長にはすごく止められました。

当時僕は27歳で、関西で売上No.1、仕事の油が乗っているいいタイミングで。

「これから海外研修とかも考えているし、もうちょっとリクルートでやらないか」と、リクルートのことじゃなく僕のことを考えて止めてくださいました。

さらに「奥さんに会わせてくれ」「お父さんがどういうつもりでお前を会社に入れようとしているのか聞きたい」とまでおっしゃって。

本当に今のタイミングなのか、ちゃんと話を聞いて納得してから送り出したいと、そんなふうに考えてくださる上司だったんですね。

でも僕としては、もう結婚することは決まっているし、会社に入ることも約束していたので、いずれ継ぐのなら早く行きたいと思いました。

それで「妻に会うのも勘弁してください」とお返事して。

自分で起業することへの未練については、先ほどお話ししたように、起業したい思いはあったけど「これがやりたい」というのはなかったので、「経営者になるんだからまぁ一緒だろう」と思って。

人に求められて経営をやらせてもらえるんだったら、そっちの方がいいじゃないかと思って行ったわけですね。

ただ、未練や後悔ということでいくと、転職後、今の会社に来てからの方が感じました。

「帰りたい」って思いましたね。

薮本

卸し事業という、ある意味旧態依然とした業種に飛び込まれて、しかも娘婿・跡継ぎというポジションのなかで、既存の方々との関係性や、仕事・業種に対する思いもいろいろあったと思います。

「帰りたい」「後悔もした」と……具体的にどういうところが辛かったですか?

山田

リクルートでは人材系の仕事をしていたので、モノを売ったことがなかったんです。

さっき話したような「女性の営業部隊を新しくつくってみませんか」とか、「新卒採用で会社はこういうふうに変わっていきますよ、やってみませんか」とか、いわゆる「提案」を売っていたんですね。

一方で大都はモノを売るビジネスで、かつ「仕入れて売る」という問屋のビジネスモデルなので、そこに付加価値を持つことが非常に難しい。

なかなかソフト面で戦うことができないんです。

何百社とある問屋のなかには、僕たちと同じ商品を仕入れて同じ場所に卸すところが必ずあって、そうすると結局価格先行になってしまう。

僕たちは当時社員数15人くらいで、問屋としては規模も小さいですから、商品を大量に安く仕入れられる大手には勝ち目がなくて。

もう一つ難しかったのが、僕たちの努力で売上を上げることができないところでした。

卸しなので、小売店さんで売れなければ、当然商品も流れていきません。

小売店さんが売ることを支援するのも問屋の役割なんですが、小売店さんに僕たちの提案を聞き入れてもらえないこともたくさんありました。

さらに、小売店さんやホームセンターさんは業界の構造上力が強いので、メチャクチャな要求をしてきたりもする。

こういう、全然フェアじゃないなかで戦っていくことにとても疑問を感じたし、面白くなくて。

「問屋では絶対に日本一にはなれない」というのが、一番夢が持てないところでしたね。

リクルートは辞めたあとも「帰ってきていいよ」って言ってくれていたんですが、後継者って、転職という選択肢がないんですよ。

だから「面白くない」とは言いながらも、とにかく今の会社でなんとかしなきゃいけないと思って取り組んでいました。

それでも、最初は腐っていましたね。

入社してすぐ専務という役職をもらいましたが、毎日毎日トラックで配達に行くんです。

入社してから5年間トラック乗っていましたから。

そうして、公園の脇にトラック止めて寝たりしてました。

これが経営者かと(笑)

自分で事業をやりたいと言って、リクルートでガンガン営業していたのに、面白くなくて、腐っちゃって。

そんな期間もありましたね。

薮本

先輩社員というか、元々おられたみなさんはどんなことをおっしゃっていたんですか。

山田

リクルートは企業のカルチャーを非常に大切にする会社だったんですが、当時の大都にはそれがまったくありませんでした。

社員の誰も会社の売上を知らなかったし、営業マンに数字の目標もまったくなかったんです。

それで毎日みんな定時に帰るという、そんな会社でした。

僕が28歳で入ったとき、僕の次に若い人がもう45歳でしたし、組織の活性化も進んでいなかった。

そういうなかで育ってきた人たちと一緒にやることの難しさも、すごく感じて。

結果的には全スタッフに退職いただくことになったんですが、元々いらっしゃった方たちが悪いと言いたいのではなくて、そうしてしまった経営者の責任を感じました。

やっぱり企業のカルチャーというものはすごく大切で、それをつくるのは経営者なんですよね。

僕も専務で経営者だったので、そういうチームにしてしまっている自分の力量が足りなかった。

当時僕はまだ20〜30代そこそこで、経営者としての経験もなく、そういう意味でも本当に難しかったです。

この経験が一つの反面教師にもなって、「人中心であるべきだ」という思いが強くなったのかもしれません。

業績が追い詰められ「やるしかない」状況に。そこでeコマースに活路を見出し、業界の「古さ」を逆手に取った

薮本

会社の文化もなく、自分自身も歩みを止めてしまうなかで、「この会社を立て直していこう」と考えられるようになったきっかけは何だったんですか?

山田

うちの場合はビジネスモデルが厳しくて、「変わらないと生き残れない」という状況でした。

かつ、業績も非常に厳しくて。

僕が35歳くらいのときに、「このままだとまずいな」と思って、当時のうちの税理士さんに廃業シミュレーションをつくってもらったんです。

会社の土地建物を売却して、在庫・売掛・買掛全部調整していって、最後ちゃんと精算できるかどうかをシミュレーションしてもらったら、「今ならできるけど、これ以上続けるとできなくなる」という結果が出て。

それで先代に「申し訳ないですが廃業させてください」とお話ししました。

そうしたら先代が「会社は残してほしい。もうお前の好きにやったらいい」とおっしゃったんですね。

「じゃあもう1年やりましょう」ということで、当時の社員さんたちに「今年1年やって赤字だったらもう廃業しますので、そのつもりで頑張りましょう」とお話しして。

僕も含めて改めてみんなでやっていったんですが、それでも組織が変わらなかったんです。

そこで孤軍奮闘するようなモチベーションも上げられなくて、結局毎日みんな定時で帰って、最終的にやっぱり赤字で終わってしまって。

全員に退職金をお支払いして、退職していただく結果になったわけです。

なので、何かきっかけがあったというよりは、やらざるをえなかったんですね。

それに、その頃はもうeコマースをスタートしていて、「これは伸びるんじゃないか」という期待がありました。

それで、卸しをやめてeコマースに張ることを決めたんです。

いわゆる「選択と集中」で、僕は今でも「何かをやる」と決めるときは「何かをやらない」と決めるときだと考えています。

eコマースをやるって決めるんだから卸しはやらないと決めよう、リソースは限られているのだから伸びるかもしれないeコマースに張ろうと。

ある意味博打的なところもあったかもしれないですが、この決断をしたのが35歳くらいのときでした。

実は、この会社を何で立ち直らせるか、いろいろ考えた時期もあったんですよ。

たとえば、人材系の仕事をずっとしていて、数千人の経営者とも会っていますし、昔のお客さんにコンタクトをとって「また人材のお手伝いしますよ」みたいな話を、大都としてやってもいいのかなと思ったこともありました。

でもそれだと、先代がずっとやってきたことがまったく活きないし、「大都がやる意味あるのかな?」と。

「じゃあ大都という会社の強みはなんだろう」と、いわゆるSWOT分析みたいなことをした時期もあります。

それで「強みはなんだ」「これから世の中はどう変わっていくんだ」と考えたときに、ずっと応援してくれている取引先さんが浮かんできて。

残念ながら売り先という資産はこれから活用できそうにないけど、反対側にあるメーカーさん、問屋さん、供給してくれる側の人たち、こういったバランスシートに載っていない資産を、次のビジネスに生かせないかと考えました。

そうするともうeコマースか、自分で小売店をやるかしか選択肢がなかったんですね。

でも小売店は資金面で難しくて、eコマースだったら初期投資もそんなにかからないので、そこからやってみようと。

そう決めたら、あとは自分で頑張ればいいだけだと思って、昼間はトラックに乗って、夜にeコマースのサイトをつくるということをやっていました。

薮本

バランスシートに載らない大事な資産に気づかれて、大都自体がeコマースで新たな販路をつくっていく決断をされたと。

とはいえ、本当に上手くいくかどうかは、メーカーさんにとってもわからない話ですよね。

そこについてはどんな反応を受けたんでしょうか。

山田

僕たちがeコマースを始めて、最初の頃はそんなに目立たなかったんですが、しばらくしてそれなりに売上が上がってくると、いろいろなことを言う人が出てきました。

一部のメーカーさんからは「問屋業に専念してください」「ネットで販売するんだったら商品供給できません」と言われたり。

一方で「新しいことやってるよね」「うちもこれからはそういうふうに変わっていくと思う、だから頑張れ」と応援してくださるメーカーさんもいっぱいいらっしゃいました。

商品供給できないとおっしゃるメーカーさんも、メーカーさん自身がというよりは、ホームセンターさんに言わされているんですよね。

ホームセンターさんは僕たちに直接は言ってこなくて、メーカーさんに「大都への商品供給を止めろ」と言うんです。

そんなケースがたくさんあったんですが、それでも屈せずに「いや、伸びるだろう」と思ってくださったかどうかが、メーカーさんの反応の違いだったと思います。

まぁなかには、「どうなるかわからないけど、そうやって言うなら応援するよ」という方もいらっしゃいました。

今でも「まだよくわかってない」という方はいらっしゃると思います(笑)

工具業界は年配の方が多くて、工具業界の工具メーカーさんで今の代表が創業者という会社は1社もないんです。

つまり全員後継者で、この何十年間新規参入はないということです。

今始めても採算がとれない、設備投資しても回収できない業界なので、斜陽産業ですよね。

そういう意味では、僕は当時古臭い業界が大嫌いだったんですが、後になってから「古い業界でよかったな」と思うようになりました。

そもそも2002年に工具のeコマースをやっている会社は僕ら以外ほぼいなかったので、当然叩かれましたが、ライバルが少ないというのはとても大きかった。

僕なんかネットを勉強し始めたのも遅い方で、社会人になってからネットが出てきた世代だし、学生の頃からネットをやっているような人たちとはワケが違います。

だから、たとえば大都がもしアパレル系の会社だったら、ECとしてはZOZOTOWN含め、勝てっこない競合が先にいくらでもいたわけです。

そういう業界でやるよりは、まだネットリテラシーが低い人たちの業界でやることはチャンスでもありました。

工具業界内には工具に詳しい人はいくらでもいるけど、ネットにも詳しい人は少ない。

ネットに詳しい人のなかにも、工具にも詳しい人は少ない。

両方を知っていることに価値があったので、それが古い業界でよかったと思う理由です。

これが家電販売とかだったら、もうとてもじゃないですけど勝てないですね。

業績が上がっても「もうこれで安泰だ」と思えたことは一度もない。常に成長意欲を持ち続けてきた

薮本

新しくeコマースを伸ばす決断をされたときに、当然新しい仲間も必要になったと思います。

とはいえ、業界としては古くて、なかなか若い人の興味を引くのも難しいと思うんですが、それでも魅力的な仲間をたくさん集めてこられていますよね。

御社のなかでも、イングリッシュネームをつけたり、素敵な社風もいろいろとつくってこられて。

そんな仲間を集めていく取り組みは、どのように始められたんですか?

山田

最初はやっぱり苦労しました。

リクルートで採用の仕事をしていたので、いわば採用のプロじゃないですか。

なのに、いざ自分の会社の採用となったときに「こんなに難しいのか」と。

大阪の生野区という立地も難点でした。

みんな普通はグランフロント大阪とかで働きたいじゃないですか。

学生さんが新しく就職するんだったら、何もこんな下町の、駅から歩いて10分くらいかかる、夏なんか出勤するだけで汗だくになるようなところに通いたくないだろうし。

しかも、まだ誰も知らない会社だし。

でも、立地が不便だからこそ、近隣に同じような業種の会社がほぼないので、その地域のなかでは勝てると考えて。

そうして一番最初に、会社の近くに住んでいる子を採用しました。

その後も地域折り込みなんかで募集して、ちょっとずつ採用していきました。

組織が劇的に変わったのは、2012年に新卒採用を始めてからです。

それまでは完全スキル採用だったので、スキル採用で組織文化をつくっていくのはすごく難しくて。

新卒採用を始めてから、企業のカルチャーが徐々にできていきましたね。

今期で会社全体の売上が55億くらいになりますが、この数字を全部責任もってやってくれているのは、まさに2012年に入った新卒一期生のうちの一人なんですよ。

薮本

30代半ばに大きな決断をして、会社自体を変えていこうという挑戦を始められたわけですが、「これでこの事業いけるな」という確信はいつ頃持たれたのでしょうか。

あるいは、実はまだ持たれていないのか。

山田

実は2000年代はじめにeコマースをやりだしたところって、どこもみんな伸びたんですよ。

当時はまだADSLでしたが、それが光回線に変わって、カード決済が普通になって。

サービスも消費者のマインドもどんどん変わっていって、ネットで買うのが当たり前になっていく流れだったので、eコマースをちゃんと真面目にやっていれば、誰でも売上が上がった時代なんです。

うちも、2009年まで昨対同月比を割ったことが一度もありませんでした。

その頃は「やっていれば伸びる」という感じだったので、もしかしたらちょっと調子に乗っていたかもしれないですね。

ただ、突き抜ける成長はしていなくて、110〜130%あたりが2002年から続いていました。

そうして2009年の2月に初めて昨対同月比を割って、「あれ?」って思ったんです。

それで周りを見渡したら、いつのまにか競合だらけで。

周りが全然見えていなかったし、次の打ち手も決めていなくて、危機感を感じました。

「これは潮の流れが変わってきているな」と。

そこで、昨対同月比を割った翌々月の4月に中国に行って、商品登録チームをつくったんです。

中国の成都でひたすら商品登録をすることで、競合他社と圧倒的な差をつけることが目的でした。

このチームの取り組みを、目標の10万点が達成する12月まで続けたところ、そこから昨対同月比が2倍になっていく流れに変わりました。

ビジネスってやっぱり波があって、ずっと上手くはいかなくて、何かターニングポイントが来るんですよね。

そういう意味で、今も含めて「もうこれでいけた」と確信できたことは一度もないです。

そしてその波のスパンはすごく短くなってきていて。

昨対同月比2倍は2年くらい続いたんですが、2014年になるとまた伸びが鈍化しました。

気がつくとまたいっぱい競合ができていて。

一番大きかったのは、Amazonが本以外も売り出したことです。

このときに、このままいくとeコマースの未来は駆逐されていくんだろうなということがなんとなくわかったんですね。

その頃にはもう、僕たちは会社のミッションとして「DIYを日本の文化にする」ということを言い始めていたので、リアル店舗を出すことに決めたんです。

そうして2014年に出したお店が非常に調子が良くて、2015年くらいから上場を目指し始めました。

そのときは年齢的にももう40歳を過ぎていたので、やるならそこそこの成長じゃなくて、劇的な成長を目指そう、突き抜ける会社をつくろうと思ったんです。

2011年に加入したEO(起業家機構)で、上場してガンガンいっているような人たちを間近で見たことも大きかったですね。

しかし資本面でどうしても限界があって、大きな勝負ができない状態だったので、資金調達に走って、2015年にGlobisから出資を受けました。

40歳を過ぎてくると、「人生1回きりだ」ということがはっきりわかってくるので、そこで一気に勝負したいと考えたんです。

だから、常に成長に対する意欲はあるし、「もうこれで安泰だ」と思ったことは一度もないですね。

20代はがむしゃらにやりきって、30代で考え、40代でかたちにして、50代で社会に何を残していくかを知る

薮本

40代中頃で、突き抜ける企業を目指していく決断をされたと。

そこから5年経って50代という年代を迎えた今、シンプルにどんな感情を持っておられますか。

山田

49歳から50歳への変わり目は、自分自身も考え方や意識が大きく変わったなと思います。

事業とリンクしているところもすごくありますね。

49歳の去年は、僕たちすごく苦しんだんです。

たとえば、二子玉川のお店を去年の秋に閉店したんですが、営業終了の決断もものすごく悩みましたし、最後の最後まで役員でも意見が割れました。

あと半年判断が遅れたら、コロナのなかでお店を持った状態になっていたので、今振り返ると正しい決断だったと思いますが、当時は本当に苦渋の決断でした。

お店を閉めたのが去年の10月で、僕は11月に50歳になったので、そういう意味で50歳になった年は、事業でも大きな変化があった年なんです。

そして経営者という面では、僕たちの会社として目指している未来と、僕の残された時間とのバランスがとれなくなってきていることを実感しています。

経営者としてやれるといっても、50歳くらいになると、すごく目も悪くなってきて。

先月僕、老眼鏡を買ったんですが、完全に「老いてるな」と思いました。

自分の老いを考えると、やれてもあと5年10年だろうなと。

そのなかで、僕たちが目指している未来にどこまで近づけるだろうか、そのときに誰にバトンを渡そうかということを、やっぱり考え出しますよね。

薮本

自分自身の力でどこまで率いていくかと、次の時代を誰が担うか。

両方が並存して課題になっていくということですね。

山田

あと、今の社員は新卒も入ってきていますから、彼らの5年後10年後、もっというと、僕たちの子どもたちが大人になったときの社会ってどうなっているんだろうということも考えます。

たとえば人口とか、ある程度わかっている変化もいっぱいありますよね。

そうなったときに、その社会に貢献できる会社になるためには、今何をやらなければいけないだろうかと。

薮本

この「50歳のエンディングノート」のデザイナーさんが20代で、「こういうメディアをどう思いますか」と聞いたら、50代どころかその手前の40代ですら「未知すぎてまったく想像つかないです」と言っていました。

実際、振り返ってみて初めていろいろなことがわかったりもすると思うんですが、山田さんにとって20代・30代・40代は、それぞれどういう意味のある年代だったんでしょうか。

山田

20代はまぁ何も考えてなくて、「今楽しければいい」という方が多分強かったと思います。

でも今振り返ると、本当にハードワークだったので、そういう意味ではすごくいい経験ができたなと。

当時は大嫌いな上司もいたんですが、今思えば「あの人のおかげだな」と感じますし。

とにかくがむしゃらにやってよかったと思っているし、できたら今の20代の人も、20代でしか経験できないことを頑張ってほしいと思います。

なんとなく20代を過ごした人と、「とにかくやりきった」と言える人では、30代ですごく差が開くと思うんですね。

30代は、僕の場合は迷走した年代というか。

20代でやってきたことを活かしながら、30代で考えて、なんとなく「ここだ」という方向性を掴むと。

僕は42歳で代表になりましたが、40代でそれをかたちにしていって。

そして「五十で天命を知る」とも言いますが、自分が何のために生まれてきて、何をこの社会に残していくのかを50代で知っていくんだろうなと。

薮本

僕自身、20代でこういった話が聞けていたら、20代という年代に対してもっと覚悟がきいたんじゃないかとか、30代で迷っているときにもっと自己肯定できたんじゃないかとか思ったりします。

山田

そうですね。

でも今は、別に20代で起業したり上場したりする人たちもいるし、年代はあまり関係ないのかもなぁ。

振り返ってみたら、やっぱり人に恵まれましたね。

20代は職場の人たちに恵まれたし、今も社員たちに恵まれたなと思うし。

それこそEOに入ったときも仲間に恵まれて、今でももちろん付き合いがあるし、すごく刺激ももらいました。

同世代でめちゃくちゃやってる奴とか、それこそ年下でも「すげぇな」と思う奴もいっぱいいて。

そういう人たちに恵まれたなぁというふうに思いますね。

良いご縁を得るには、人との出会いを常に大切にすることと、「失うものはない」と気づくこと

薮本

人との出会いやご縁というのは、僕がこうやって取材させてもらう方はおそらくみなさん共通して思われているところだと思います。

ただ、メディアを読む側からするとすごく気になるのが、どうすればそういう良いご縁に出会えるのか。

今もしそういったご縁を実感できていない人がいたら、まず何から取り組んだらいいのか、何かアドバイスをいただけませんか。

山田

僕、自分はすごくついていると思っているんですよね、運がいいというか。

でもいろいろなことを振り返ると、その運の良さって、大体人が絡んでいるんです。

あの人とあのときに出会ったからこうなったんだとか、あの人を紹介してくれたあの人が今こんなことになっているとか。

そう考えると、やっぱり人との出会いを常に大切にすることなのかなと思います。

良いご縁がどんなタイミングで来るかわからないですから。

今はコロナ禍で出かけられない人が多いので、そういう出会いがすごく減っていることも心配していますが。

あとは、基本的にまずは「与える」というところですよね。

聞きたいこととかいろいろあるだろうけど、まずは自分が聞かれたら必ず答える。

「取材させてくれ」と言われたら「はい、やります」と言う(笑)

薮本

ありがとうございます(笑)

山田

いつか僕が薮本さんに「こういうことを聞きたい」ってタイミングも、多分あると思うんですよ。

「あのことでちょっと聞きたいんだけども」っていうのが、やっぱりこういう関係ができていると聞きやすいでしょう?

だからこそ、そのときそのときのご縁というか、出会いを雑にしないということですよね。

これもリクルートでの営業時代の経験なんですが、僕、すごく落としたいクライアントがあったんですよ。

リクルートの誰も落としたことのない大手企業で、当然その会社に通うんですが、いつも門前払いで。

何回も行くから、担当者が顔は合わせてくれるんですが、「また来たんか、うちはやらへんで」って感じで。

そうして通っているうちに、そこの社長が急にお亡くなりになったんです。

取引はないんですが、社長のことは知っていたので、社葬にうかがってお焼香だけして帰ってきたんですね。

それからしばらくして、先方の部長から電話がかかってきて、「お前葬式来てたよな、見かけたで」「取引しようか」っておっしゃったんですよ。

だから、もう何がどうなってどうなるかわからない。

「ああ、見ている人はちゃんと見ているんだなぁ」と。

薮本

もしかしたら、良い縁になかなか恵まれないと思っている人は、そういったきっかけの横を目をつぶって通り過ぎてしまっているだけなのかもしれませんね。

山田

そうですね。

あと、先ほども話しましたが、「失うものがない」と思うと、出会いのきっかけの行動も全然怖くなくなるんです。

たとえば、駅で困っているおばあちゃんを見かけて、みんな知らんふりをしていると。

自分が声をかけたらおばあちゃんは「そんなことしないでくれ」って言うかもしれないし、周りの人は「何あの子かっこつけて」って思うかもしれない。

いろいろなことを考えると思うんですけど、「あ、助けてあげたいな」と思ったんだったら、言えばいいんですよ。

それで断られようが、周りになんて言われようが、何も失うものはないじゃないですか。

自分自身が傷つくのが怖いだけで。

だったら、やった方がいいよねと思うんですよね。

自分らしさを大切にする企業文化で、しっかり自立して機能する組織をつくれた

薮本

御社の新しいスローガンで、「be you(自分らしさ)」という言葉をお見かけしたんですが、今、自分らしさに悩んでいる人も結構多いんじゃないかと思います。

この言葉を選ばれた理由や、その思いをお聞かせください。

山田

このスローガンはスタッフとも丸一日ディスカッションして決めたんですが、そのときにずっと話し合ったのは「大都らしさって何だろう」ということなんです。

まず、DIYの本来の意味は自分たちの暮らしを自分たちでつくることなので、そういう「らしさ」を大切にしようという意味で、会社のビジョンは「らしさの溢れる世界を」としています。

そのうえで、「やっぱりスタッフ自身も自分らしさを大切にしたいね」ということで、スローガンを「be you」にしました。

自分たちに向けてもそうですし、お客さんや取引先さんも、みんな「あなたらしくいたらいいですよ」と。

そして「僕たちと一緒にやりましょう」と。

名刺の裏にも「be you」と書いていますが、その文字の下の写真は、みんなそれぞれ自分を表現する写真を入れているんです。

サーフィン好きな奴はサーフィンの写真のうえに「be you」って書いているし、僕は銭湯が好きなので、銭湯の暖簾の「湯」のところに「be you」って書いています。

自分らしさを提案する会社の社員が、自分らしくなかったらおかしいよねということなんですね。

大都は組織づくりが非常にフラットで、役職者もいない組織です。

今回のコロナ禍で、僕たちも5月から100%リモートワークに入ったんですが、リモートではまず電話が取れないし、郵便物も受け取れないしで、取引先さんにもいろいろなことを協力してもらって、それをスタッフも全部理解して進めていきました。

そんななかでも、5月は過去最高の業績を上げることができたんですね。

そして4月に入ってきたばかりの新卒もいきなり会社に来れなくなって、これもまったく未知の経験でしたが、それでも数ヶ月経った今彼らは大きく成長しています。

コロナ禍という困難を乗り越えられたことで、フラットな組織づくりがしっかり機能していること、自立した組織になれていることを実感できました。

コロナ禍の大きな変化のなかで、おそらく対応できた企業と対応できなかった企業両方あったと思うんですよね。

そこできいてくるのはやっぱり、普段からの組織づくりと、ベースに信頼があるかどうか。

リモートワークなんて、信頼がないと働いているかどうか疑ってばかりになりますから。

そこが上手くいけたと思っていますし、今後の働き方もそういうふうになっていくだろうなと。

先代は僕に最高のバトンの渡し方をしてくれた

薮本

ターニングポイントのきっかけをつくられた、義理のお父様である先代に対して、今振り返ってどういうことを思われますか。

山田

先代は残念ながら8年前の2012年に他界しましたが、僕に非常に気を遣ってくれていました。

前の会社を辞めて今の会社に入って、苦労させていることは先代も当然わかってくれていたので、「苦労させて申し訳ない」ということを仰っていましたね。

僕が先代と代表を交代したのは2011年で、当時既に42歳ですから、非常に遅かったんです。

先代ははもう何年も前から会社に来ていなくて、舵取りは僕がやっていたんですが、その状態で2011年まで代表を交代しなかったのは、先代が僕に借り入れの個人保証をさせるのが申し訳ないという理由だったんですね。

代表者が個人保証させるという中小企業のルールがあるので、そこの気を遣ってくださって。

でも当時はもう業績も良くなっていたし、自分の責任で経営しているのだから、個人保証も代わりますよということで交代して、その1年後に急死されました。

事業承継って、バトンリレーなんですよね。

創業者が2代目にバトンを渡して、2代目が3代目にバトンを渡していくわけですが、先代は僕に最高のバトンの渡し方をしてくださったと思います。

僕が一番最高だと思うバトンの渡し方は、受け取る側は前向いて思いっきり走って、パッとみたらもうバトンが渡されているというものです。

バトンを渡す側のことを意識するとどうしてもスピードが落ちますから、そうじゃなくて、前向いて思いっきり走っていて、いつの間にかもうバトンが渡されているということですね。

先代は、本当にそういう渡し方をしてくれる人だったなぁと思います。

会社というものも、基本的にはバトンリレーが続いていくわけじゃないですか。

社会的に意味のある会社であればずっと残っていくはずで、残っていくなら経営者はバトンを渡す側になるわけで。

僕もいずれは死にますが、僕が死んでも会社は残りますから。

だからこそ、それをどうやって渡していくのかを、今バトンを持っている人はバトンを持ちながら考えていく。

それが50代なのかなと思います。

50代のうちに次のバトンを渡したいなと思っていますけどね。

何歳になっても「今が一番楽しい」と思えるようにありたい

薮本

ちょうど娘さんが20代で、これから社会に出られるということで、20代の方へアドバイスの言葉をいただけますか。

山田

さっきの話じゃないですけど、「失うものはないから思い切ってやればいい」と思いますね。

薮本

僕も今回、徳島の仏壇屋さんと知り合って、ぜひ仕事をという話になり、実際に現地に行っていろんな方のお話を聞きました。

そのときに、今までは仏壇って単なる儀礼的なものとして受け止めていたんですが、実はすごく寄り添える品なんだと知りまして。

それに、僕の家には仏壇がないんですが、実際に向かい合ってみるとすごくいいスペースというか、自分との対話ができる場所でもあるんだなと気づきました。

僕自身、合理的な考え方をしてきた方だと思っているんですが、そういうなかで失ってきたものも多いんじゃないかって。

なんだか改めて対話できる機会を与えてもらったような気がしたんです。

自分ともそうですし、彼岸に渡った方との対話もそうですし。

そういった気づきがあって、自分より少し先輩のみなさんから、改めていろんな経験のシェアが得られるんじゃないかと考えました。

それを、先ほどのバトンじゃないですけど、僕以外の方にもつないでいくことができる、そういったメディアを一緒にやりましょうと。

山田

うちは仏壇あって、やっぱり仏壇の前には毎日座りますよ。

それとお墓まいりですね。

仏壇がない人はいると思いますが、お墓はあるでしょ?

お墓まいりも2ヶ月に1回くらい行きますが、僕はある意味、自分との答え合わせの場所だと思っているんですよ。

行ったときに「今これをやっている」とか、「これからこういうことやろうと思っている」というのを、そこにいる先代と創業者に、ちゃんと胸を張って言えるかどうか。

そこでもし後ろめたさとか「ごめんなさい」というような気持ちがあったら、もしかしたら何か間違ったことをやろうとしているのかなと思ったり。

最近、たとえば瞑想って流行っていますけど、ある意味瞑想する場所としてすごくいいと思っているんですよね。

何も考えないでお墓の前にいるとか、それこそ先代に答え合わせに行くというか。

薮本

今回「エンディングノート」というタイトルですが、実はエンディングノートを書くということは、非常に縁起の良いことだと思っています。

そのエンディングノートの表紙に何か言葉を書くとしたら、山田さんだったらどういう言葉を選ばれるでしょうか。

やっぱりエンディングノートって残された方が見るものだと思うので、今大切な人に言葉を残すとしたら。

山田

「人生いつも今が最高」って書くと思います。

僕は常にそう思っているんですよね。

苦しいときも、去年とかもそう思っていました。

よくあるじゃないですか、たとえばうちの奥さんなんか「高校生のときが一番楽しかったわ」とか、高校生の娘に言うんですよ。

だから「今を楽しんで」と。

そういう会話を横で聞いていて、自分は人生を振り返ったときにいつが一番楽しかったんだろうって、小学校、高校、大学とかって考えるんですけど、やっぱり今が一番楽しいんですよね。

なので何歳になっても「今が一番楽しい」と思えるようにこの先もありたいと思っているし、死ぬときも「今が最高」って思っていたいです。

薮本

ありがとうございました。


エピローグ

僕らはいつも山田さんのことを「ガクさん」って呼んでいます。

50歳になられたところで、僕からすると起業家としての先輩なんですが、いつもとても気さくな感じでお声がけをいただく方なんですよね。

まさに兄貴分といった感じでしょうか。

今回お話をうかがって、「バトンを綺麗に渡す」というところへの美意識が印象的でした。

まさに先代から会社を受け継がれて、自分自身も使命感をもって会社の文化・事業・組織をつくってこられて。

何より、人に対してその文化をどう受け継いでいくか、バトンを渡していくかというところに強い思いをもっておられることに気づかされました。

僕自身、人に対して何かを残していくという思いで生きられているのか、生きてこれているのか、そこを考えさせられるインタビューになったと思います。

僕も「今が一番楽しい」と言い切れるような生き方をしたいと思いました。

 

山田さん、どうもありがとうございました!

(インタビュイー)

株式会社大都 代表取締役 山田岳人(Takahito Yamada)

1969年11月生まれ。石川県出身。大学卒業後、リクルートに入社。6年間の人材採用の営業を経て、1998年に総合金物工具商社であった大都に入社。2002年にEC事業を立ち上げる。2011年、代表取締役に就任。2014年、リアル店舗「DIY FACTORY OSAKA」2015年東京二子玉川ライズに「DIY FACTORY FUTAKO」をオープン。2017年にGreenSnap株式会社を子会社化し、同年カインズと資本業務提携を結ぶ。2018年、一般社団法人ベンチャー型事業承継の理事を務める。(社)日本DIY協会が認定する「DIYアドバイザー」の資格を持つ。
https://www.daitotools.com/

(インタビュアー)

株式会社サムシングファン代表取締役
立命館大学経営学部客員教授 薮本直樹(Naoki Yabumoto)

1976年大阪生まれ。司会・ナレーターなどの仕事に携わる中、映像メディアに出会い、その可能性に魅せられ03年に代表取締役として株式会社サムシングファンを設立。経営的視点からの動画活用を早くから提案し、「顧客創造」「人材育成」に繋がる「企画」「映像制作」を数多く手がける。その他、ITビジネスに携わる経営者・ビジネスパーソンが集う「IT飲み会」を主催。 2013年立命館大学経営学部客員教授就任。