
何歳になっても「今が一番楽しい」と思えるようにありたい【山田岳人さまインタビュー】
プロローグ
「50歳のエンディングノート」取材担当のサムシングファン薮本です。
今日は、先日「カンブリア宮殿」にもご出演された、大阪市大阪府生野区の元工具の卸問屋、今は「DIYファクトリー」というECサイトを運営されている、株式会社大都の山田さんにお話をうかがいます。
非常に気さくな方で、ざっくばらんにお話をしていただける方なんですが、いろいろな深いお話をどこまでシェアいただけるのか、一生懸命取材をしてまいりますので、よろしくお願いいたします!
また今回のインタビュー動画もありますのでご覧ください。

よろしくお願いします。

はい、よろしくお願いします。
薮本
このメディアは「50歳のエンディングノート」というタイトルなんですが、特に20代・30代から見ると、50代はなかなか未知の世界なのかなと思っています。
とはいえ、不安を感じるのではなく、今の年代を力一杯走りきるうえでも、先輩たちの経験や見えている景色から、いろいろな気づきを得られるメディアをつくろうと。
僕自身も今43歳なんですが、いろいろと悩みが多いこともあって。
僕自身が気づきを得たいという思いからも、今回こういった企画をつくらせていただきました。
では、最初に山田さんから簡単に自己紹介をいただいてもよろしいでしょうか。
山田
はい、株式会社大都の代表をやっています、山田といいます。
会社は大阪の生野区という下町にありまして、今年で創業83年、私で3代目になる会社です。
弊社は、初代は金物屋さんに工具とかを卸していて、2代目である先代はホームセンターとかに工具を卸すという、卸し事業をずっとやってきました。
私の代になって、eコマース事業という、お客さんに直接商品や工具を発売する事業をやっています。
今はもう問屋事業の売上はゼロの状態ですが、仕入先さんは創業の頃からずっと同じです。
工具メーカーさんや塗料メーカーさんから商品を仕入れているところは変わらず、売り先が社会背景や世代によって変わっていったというところですね。
ちょうど今ジャスト50歳ということで、今日はいろいろとお話しさせていただけたらと思います。
リクルートで「仕事」との出会い。経営の知見や耐性を得て、20代で起業の準備をした
薮本
今までの人生を振り返ったときに、ターニングポイントがいくつかあると思うんですが、山田さんの記事でよく、今の会社を受け継ぐきっかけになったプロポーズのエピソードを拝見します。
そのときのことも含めて、今の山田さんをつくっているいくつかのターニングポイントについて、ぜひ教えてください。
山田
学生の頃は遊び呆けていました。
大学3回生くらいから「いよいよ危ないぞ」と思い始めて。
それまでずっとバーテンダーのアルバイトをしていたので、真面目な仕事をしようと思って、昼のアルバイトを始めようと。
当時の先輩から「学生バイトでもいいから来てほしいって言ってるよ」と聞いて、行かせていただいたのがリクルートでした。
そうしてアルバイトで入ったリクルートが、ものすごく面白くて。
結局大学を卒業してからも、新卒でリクルートに入社することになったんですね。
なので就職活動はまったくしていないんです。
社会人5年目くらいのときに、大学生の頃から付き合っていた彼女と「結婚しよう」という話になったんですが、その彼女が大都の、先代の一人娘でした。
結婚の申し込みに行ったところ、「会社を継いでもらえないですか」というお話をいただいて。
「いいですよ」とお返事をして、結婚して1年後に大都に入社しました。
結婚が27歳で、入社したのが28歳でしたね。
結婚と就職がくっついていたということで、僕の人生でここが一つの大きなターニングポイントだったと思います。
そしてビジネス上での大きなターニングポイントが、2002年、33歳のときに社内でeコマース事業を立ち上げたときです。
今はeコマース事業の売上が100%ですから、もし当時チャレンジせず卸し事業だけを続けていたら、今はなかったなと。
薮本
人生の大きなのターニングポイントの前に、まずリクルートで「仕事との出会い」があったんですね。
山田さんから見たリクルートの面白さとか、働いていたときの良さというのは、どんなものだったのでしょうか。
山田
僕がリクルートに新卒入社したのは1992年、バブル崩壊直後くらいですね。
当時はB-ingやフロムエーなんかもまだウェブがなくて、ほとんど紙媒体でした。
リクルートはほとんどが営業マンですから、僕もそういった紙媒体の営業をやっていたんです。
そんななかで面白かったのは、まず一つが、客先の業種を選ばないこと。
それこそ商店街の個人商店から上場企業まで、どこに行ってもいいので、いろいろな会社の担当をしました。
二つ目が、経営者に近いところで話ができること。
5年間で3,000人くらいの経営者の方とお会いして、たとえば「女性の営業部隊をつくりましょう」なんて採用戦略の提案をしたり。
僕は当時から起業するつもりでいたので、売上が欲しいというより、できるだけたくさんの経営者に話を聞きたくて、アポイントとっていたところも実はあります。
そして三つ目は、限界まで働くという経験ができたこと。
当時のリクルートはまだ上場もしていませんでしたし、今から考えればもうメチャクチャな会社でした。
毎日朝から終電まで働いて、ブラック起業というか、「漆黒のブラック企業」ですね(笑)
かつ数字に対するコミットがすごくて、関西の営業マン百数十人の1番から最後まで、毎日夕方になると数字が出るような会社で。
無理をやることで発想が生まれてくる経験とか、「あれを乗り越えたんだから大抵のことは乗り越えられる」と思えたり。
そういう意味でものすごく鍛えられた、いい20代だったと思います。
僕の娘が今ちょうど大学3年生で、就職活動に入る時期ですが、彼女に「どこの会社がいい?」って聞かれたら「リクルートに行け」って言いますね。
薮本
「何を目指していいかわからない」「やりたいことがない」という20代の方も多いと思いますが、20代の頃の山田さんが明確に「起業」という一つの目標を持てたのは、どういった思いや考えからだったんでしょうか。
山田
起業したいという思いは強かったんですが、実は「これがしたい」というのはなかったんですよ。
それもあって、いろんな業種・業界の経営者に会いたかったんです。
それでたくさん会社に通って3,000人も経営者に会えば、「この会社は伸びないな」「こういうオフィスや従業員の会社は伸びるな」といった知見ができてくるんですね。
それから、自分自身の成長に対してもこだわりがあったので、リクルートに行きながら中小企業診断士の学校にも行っていました。
リクルートの営業マンって営業しか知らないので、よく「潰しが利かない」と言われたりもして。
営業は、極めたとまでは言えないかもしれないけど、一通り理解できたので、経営者になるには財務とかも理解しないといけないだろうということで、学校に通って。
そうして「起業の準備していた」という感じです。
薮本
行動量の多さがとても印象的ですが、20代の頃はそこに対して「めんどくさい」とか、「ちょっと躊躇するな」という気持ちはありませんでしたか?
山田
なかったですね。
それもやっぱりリクルートから学んだことで、とにかく「自分で考えろ」と言われる会社なんです。
リクルートでは先輩や上司に「これはどうしたらいいですか」って聞くと、「お前はどうしたいの」と聞き返されるんですよね。
それで自分で考える癖がついたんだと思います。
あと、飛び込み営業も当たり前にやっていたんですが、全然知らない会社の扉をいきなり開けるのは、最初はやっぱり怖かったです。
扉に「セールスお断り」とか書いてあって、それでも飛び込んでいって、無下な対応をされることも当然あるわけですよね。
でも、先輩に「それでお前は何を失うんだ」と言われて。
たとえば、もしそこで「帰れ」と言われても、別に殴られるわけでも、お金を取られるわけでもない。
「それはただ単に自分が傷つくってことでしょ」「それってなんか意味あるの?」と言われて、「なるほど、失うものはないな」と気づいて。
それからは、大抵のことはもう怖くなくなりました。
耐性というか、そういう力はある程度20代でついた気がします。
少々凹んでも、1年後に同じことで悩んでいるかというと、大抵のことはそうじゃないんですよね。
後継ぎとして念願の経営者に。しかし夢を持てず腐ってしまった時期もあった
薮本
ゆくゆく起業するうえでも大切な気づきを、リクルートでいろいろと得られたということなんですが、結局ご自身でアイデアを実現されるのではなく、ご結婚をきっかけに「跡継ぎになる」という選択をされました。
そのときに、そもそもリクルートへの未練や、自分で起業することへの未練が頭をよぎることはなかったですか?
山田
リクルートへの未練は、ゼロではなかったです。
特に、当時の上司だった大阪支社長にはすごく止められました。
当時僕は27歳で、関西で売上No.1、仕事の油が乗っているいいタイミングで。
「これから海外研修とかも考えているし、もうちょっとリクルートでやらないか」と、リクルートのことじゃなく僕のことを考えて止めてくださいました。
さらに「奥さんに会わせてくれ」「お父さんがどういうつもりでお前を会社に入れようとしているのか聞きたい」とまでおっしゃって。

(インタビュイー)
株式会社大都 代表取締役 山田岳人(Takahito Yamada)
1969年11月生まれ。石川県出身。大学卒業後、リクルートに入社。6年間の人材採用の営業を経て、1998年に総合金物工具商社であった大都に入社。2002年にEC事業を立ち上げる。2011年、代表取締役に就任。2014年、リアル店舗「DIY FACTORY OSAKA」2015年東京二子玉川ライズに「DIY FACTORY FUTAKO」をオープン。2017年にGreenSnap株式会社を子会社化し、同年カインズと資本業務提携を結ぶ。2018年、一般社団法人ベンチャー型事業承継の理事を務める。(社)日本DIY協会が認定する「DIYアドバイザー」の資格を持つ。
https://www.daitotools.com/

(インタビュアー)
株式会社サムシングファン代表取締役
立命館大学経営学部客員教授 薮本直樹(Naoki Yabumoto)
1976年大阪生まれ。司会・ナレーターなどの仕事に携わる中、映像メディアに出会い、その可能性に魅せられ03年に代表取締役として株式会社サムシングファンを設立。経営的視点からの動画活用を早くから提案し、「顧客創造」「人材育成」に繋がる「企画」「映像制作」を数多く手がける。その他、ITビジネスに携わる経営者・ビジネスパーソンが集う「IT飲み会」を主催。 2013年立命館大学経営学部客員教授就任。