Mokurin
宗祖 | 弘法大師空海 |
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ご本尊 | 大日如来 |
7世紀中頃のインドで、当時衰退の傾向にあった仏教の復興運動がおきました。この運動によって密教が盛んになり、西インドで『大日経』が、南インドで『金剛経』が成立します。『大日経』は善無畏三蔵によって陸路で、『金剛経』は金剛智三蔵によって海路で中国に伝えられました。中国に伝わった密教は、初めこの2派に分かれていましたが、空海の師匠である恵果和尚によって統一されます。 弘法大師空海は宝亀5年(774)讃岐国に生まれ、15歳で都にのぼり、仏教をはじめさまざまな学問を学び、各地の山野で修行しました。そして密教の実践を学ぶため中国へ留学、恵果に入門します。恵果は空海に会うなり「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を伝えましょう」と言ったそうです。つまり恵果は1000人を超える弟子の中から、正当な密教の継承者として空海を選んだのです。空海は帰国後、全校行脚を経て真言宗を開きます。 真言宗は興教大師覚鑁が高野山座主の時に古義と新義に分かれ、その後さらに分化し多くの派が生まれてゆきます。
分派が多く、また地域による違いもあり、飾りかたはさまざまですが一例をあげます。高野山真言宗では中央にご本尊である大日如来を、向かって右側に弘法大師、左に不動明王をまつります。豊山派・智山派では左に興教大師覚鑁、あるいはそのかわりに不動明王か、観世音菩薩や地蔵菩薩などをまつることが多いようです。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
宗祖 | 見真大師親鸞聖人 |
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ご本尊 | 阿弥陀如来 |
承安3年(1173)、親鸞は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修行を続けますが、やがて比叡山の仏教に絶望し、浄土宗の宗祖法然を訪ねます。そこで法然の専修念仏の教えに感銘し入門します。 しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗(ひそうひぞく)の境地をひらき自らを「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224)浄土真宗の根本聖典になる『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)を執筆、この年が立教開宗の年とされています。 晩年は家族とともに京都へ帰り、90歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子達へ手紙で指導を続けました。 親鸞の死後、教団は次第に衰微していきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。
絵像の阿弥陀如来を中央に飾ることが多いようですが、最近では木像を飾ることもあるようです。そして向かって右に「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を、左に「南無不可思議光如来」の九字名号を飾ります。また、右に親覧聖人、左に蓮如上人の絵像を掛けることもあります。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
宗祖 | 親鸞聖人 |
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中興の祖 | 蓮如上人 |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
承安3年(1173)、親鸞聖人は京都に生まれ9歳で得度しました。その後20年間に亘り比叡山で修行を続けますが、やがて比叡山の仏教に絶望し、法然上人を訪ねます。そこで法然上人の専修念仏の教えに帰依したのでした。 しかし、専修念仏が禁止され、越後に流罪。その後、親鸞聖人は非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)として「愚禿釈親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東に移り、約20年にわたり教えを広めます。 60歳を超えた頃、京都へ帰り、90歳で亡くなるまで盛んに執筆活動を行い、同時に関東の門弟達へ手紙で教えを説きつづけました。 親鸞聖人の滅後、門弟の力により建てられた大谷廟堂(後の本願寺)は次第に衰微していきますが、八代蓮如上人によって再興をはたします。慶長7年(1602)、東本願寺は、西本願寺と分かれ、現在は親鸞聖人の教えを聞く根本道場・真宗本廟として宗門人の帰依処となっています。
御本尊・阿弥陀如来を中央に、その両脇に御脇掛(九字・十字の御名号、または親鸞聖人・蓮如上人の御影、及び側面に先祖代々の法名を奉安します。法名は掛軸にし、位牌は用いません。 ※お内仏の大きさによってお荘厳が異なりますので、お手次の寺院にお訪ねください。
宗祖 | 伝教大師最澄 |
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高祖 | 天台大師智顗 |
ご本尊 | 久遠実成無作の本仏(釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩など) |
天台宗の名のルーツは中国の浙江省天台県にある天台山にあります。中国随代に天台宗を開いた天台大師智顗は、天台山を修行の地に定め根本道場を開いたため、天台大師と呼ばれ、またその系譜を天台宗と呼ぶようになりました。わが国に天台宗を開いた伝教大師最澄も、中国に留学中に天台山で修行をしています。 最澄は、天平神護2年(766)近江国に生まれました。長じて、当時のさまざまな仏教を学び修行した最澄はやがて天台大師の教えに出会い、なんとしても中国に渡り天台宗の極意を学ばなければならないと決意、留学を果たします。そして、中国で研鑽を重ねた後、多くの仏教典籍とともに帰国し、日本に天台宗を開くのです。開宗は延暦25年(806)1月26日とされています。 その後、慈覚大師円仁・智証大師円珍・五大院尊者安然・慈慧大師良源・恵心僧都源信・慈眼大師天海らの名僧によって天台宗は発展を遂げることになります。
ご本尊は久遠実成無作の本仏である釈迦如来ですが、阿弥陀如来をまつることも多いようです。それぞれの信仰によって、薬師如来、観世音菩薩、不動明王、毘沙門天などをまつることもあります(一般的には菩提寺のご本尊にならいます)。向かって右側に高祖天台大師を、左側に伝教大師最澄のご影像をかかげます。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
宗祖 | 法然上人(源空) |
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ご本尊 | 阿弥陀如来 |
浄土宗の宗祖法然は、長承2年(1133)美作国に生まれました。幼くして父を失った法然は遺言にしたがって仏の道を志します。叔父の観覚のもとで仏教を学んだ後、比叡山東塔西谷功徳院の皇円のもとで出家します。しかし、当時の比叡山は僧侶達が権力闘争に明け暮れる状況にありました。そこで法然は、比叡山の中でも真摯に仏教を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門します。それから25年間、救いの道を求めて苦悶しながら、ひたすら仏道を追い求めます。 そしてついに43歳の時、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。この「念仏を唱えれば救われる」という教えはまたたく間に広まりました。しかし、既成宗教から「伝統的な仏教を否定するもの」として弾圧を受け、讃岐に流罪になります。後に許されて京都へ戻り、現在の智恩院の地で80歳の生涯を閉じます。法然の死後、弟子達によって浄土宗はさらに広まっていきました。
中央にご本尊の阿弥陀如来を、向かって右に観世音菩薩、左に勢至菩薩をまつります。さらに観音菩薩の隣に、唐の善導大師を、勢至菩薩の隣には宗祖円光大師法然をまつります。お仏壇の大きさなどによっては、観音・勢至の両菩薩は省略されます。また、仏壇か厨子の前に戸張を垂らすこともあります。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
宗祖 | 中国で臨済宗を開いた臨済義玄(りんざいぎげん)を宗祖として仰ぎ、日本に臨済宗を開いた明庵栄西(みょうあんようさい)を開祖としています。しかし、栄西の系譜は早くに途絶えました。その後、中国からの渡来僧を開山とする多くの臨済宗寺院が建立されます。そして、現在の臨済宗のほとんどは江戸中期に修行体系を完成した白隠慧鶴(はくいんえかく)の系譜に属しています。 |
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ご本尊 | 釈迦牟尼仏 |
弟子が師匠から法を受け継ぐことを、特に禅宗では重視します。それは、仏教開祖のお釈迦さまの悟りを引き継いでいる、ということを大切にするからなのです。禅宗はお釈迦さまから28代にあたる菩提達磨によって中国へ伝えられました。そして、達磨から6代目の六祖慧能、さらに慧能から五代目の臨済義玄に法が受け継がれ、中国に臨済宗が開かれました。日本に臨済宗をもたらした明庵栄西や、円爾弁円は中国へわたってこの教えの流れを引き継いだのです。さらに、中国から帰化した蘭溪道隆や無学祖元なども日本へ臨済宗を伝えました。 室町時代には武家の帰依を受けた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの禅文化が花開きます。また、大応国師、大燈国師、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。
臨済宗には多くの分派があり、飾りかたに相違があるので詳しくは菩提寺のご住職に相談してください。仏壇の中央には御本尊として釈迦牟尼仏をまつることが多いようですが、両脇は各派で違いがあります。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがあります。ちなみに妙心寺派の場合は向かって右に開山の無相大師の絵像を、左には花園法皇の絵像を飾ることが多いようです。
太祖 | 常済大師瑩山禅師 |
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高祖 | 承陽大師道元禅師 |
ご本尊 | 釈迦牟尼仏 |
8世紀初め頃の中国の禅僧である洞山良价の「洞」と、その弟子である曹山本寂の「曹」をとって「曹洞」としたのが、曹洞宗の名の由来だと言われています。 わが国に曹洞宗を開いた道元は、正治2年(1200)内大臣久我通親の子として京に生まれました。幼くして両親を失った道元は、13歳の時に比叡山に上り、天台教学を学びます。しかし、天台宗に疑問を抱き、18歳で建仁寺に栄西を訪ねます。そして貞応2年(1223)に中国に渡り、如浄を師として曹洞禅を学びました。 身心脱落の境地を得て帰国した道元は、宇治に興聖寺を開きます。その後、越前に移り永平寺を建て、自らの理想とする正法の仏法の提唱と弟子の育成につとめました。 道元から4代目にあたる瑩山は、多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化にもつとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくりました。曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖と仰いでいます。
お仏壇の中央に、ご本尊の釈迦牟尼仏をまつり、脇に文殊・普賢の三尊形式とするか、向かって右に道元禅師を、左に瑩山禅師を配して「一仏両祖」の三尊仏形式としてまつります。(一仏両祖を一本とした、三尊仏の掛け軸もあります)。また、右に達磨大師を、左に道元禅師と瑩山禅師をまつる場合もあるようです。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
宗祖 | 日蓮聖人 |
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ご本尊 | 大曼荼羅 |
日蓮は貞応元年(1222)安房国(千葉県)に生まれ、12歳で天台宗清澄寺に入り、16歳で得度します。21歳の時に比叡山へ上ると膨大な書物を読破しながら、教えを求めて園城寺、高野山などへも訪れます。こうした修行研鑽を11年続け、ついに「お釈迦さまの最高の教えである『法華経』こそが、救いのよりどころとなる唯一の教典である」という確信を得ました。 清澄寺に戻った日蓮は、建長5年(1253) 清澄山頂に登って「南無妙法蓮華経」の題目を高唱し、立教を宣言します。その後、「法華経を広めようとする行者は難にあう」という法華経自体に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の法難」など数々の難に遭い、死の危険にさらされることになります。「社会に天災や疫病などが続くのは邪法・悪法がはびこっているからだ。法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた『立正安国論』を執権北条時頼に提出すると、その内容を幕府に危険視され伊豆に流罪(伊豆の法難)。さらに「龍の口の法難」では斬殺寸前となりますが稲妻によって奇跡的に逃れ、佐渡に流罪となります。文永11年(1274)ようやくゆるされた日蓮は身延山に入り、61歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成につとめたのです。
中央には大曼荼羅か、釈迦牟尼仏、あるいは三宝尊のいずれかをご本尊としてまつります(三宝尊とは向かって右に多宝如来、中央に「南無妙法蓮華経」のお題目、左に釈迦牟尼仏を配したものです。その右に鬼子母神、左に大黒天をまつります(法華宗では逆)。そしてそれらの前中央に日蓮聖人をまつります。
※これは一例です。地域や仏壇の大小などによってまつり方に違いがありますので、正しくは菩提寺にお聞きください。
【鎌倉新書「2分でわかる仏事の知識」より抜粋】